クラッシュ



J・G・バラード『クラッシュ』(創元SF文庫)

テクノロジーに囲まれた我々は、エロスと快楽という結びつきを自動車事故に見出してしまうかもしれない。インターネット上で見られる顔を粉砕された男性、大破した自動車で大やけどを負い、以前とはまったく違った生活を送っている人、折れ曲がった肉体、大破した車内にたたずむ、まるでオブジェのような運転者あるいは同伴者。バラードは、自動車事故という「聖別」によって、事故車やスピードに興奮、快楽を求める人々の可能性を妖艶に、そして生き生きと描き出す。高速道路の中にある島に偶発的に取り残され、そのまま生活を希望する主人公を描く『コンクリート・アイランド』(太田出版)や、高層ビルの上階と下階の間の対立構造をエキセントリックに描く『ハイ・ライズ』(ハヤカワ文庫SF)とはアプローチが異なり、社会・環境制約→個人へのフィードバックへという流れを明示的に示しているわけではなく、自動車事故という個人的な体験→局所的な社会・環境変化という、個人レベルでのイニシエーションを示唆している。自動車事故という強烈なイニシエーションにより、「自動車事故に遭遇したもの」という属性をもつ人間となり、その結果教祖ともいうべくヴォーンに導かれながら、主人公たちはエキセントリックな世界へと巻き込まれていく。

自動車事故のイニシエーションによるエキセントリックな機械と人間との結合は、主人公たちの内的世界に大きな影響を及ぼす。事故者の内的世界は大きく破損・変化し、メカニカルなオブジェクトと結合・和合することにより、肉と機械のオブジェとなる。これはまさに無機と有機との結合であり、新たな幾何面で構成される性と死の結合である。もともと車に機能的な側面しか感じていなかった人々が事故をきっかけに、車にエロスを感じるようになる理由は、強烈な体験だけではなく、秩序のあった美しい形態が自動車事故により、カオス的で、予想もつかないような形態になるという点だろう。その意味では、人間が好性向、すなわち完璧な美と混沌の美のうちで、自動車事故の美しさは後者に属するからであると感じる。それは美しいものを汚したい、という要求にもつながるものであり、不完全だから、完璧ではないからこそ感じられる美の幾何学をバラードは直観的に感じ取ったのだろう。

テクノロジーに囲まれる現代人がテクノストレスから解放される方法。それは、何らかの快楽を見出すことであり、それは内的世界の拡張による、外的世界へのフィードバックである。これは、閉じたシステムであった個人の内的宇宙が、自動車事故というイニシエーションにより、閉じた内的世界を別の閉じたシステムへと解放し、相関することにより、自動車事故による一つのつながりを作り出すということに他ならない。個別の内的世界が、自動車事故という強烈な体験を通じてつながることにより、より巨大なフィードバックシステムが成立する可能性がある。それを独裁的な個人の内的宇宙に求めたのが『夢幻会社』(創元SF文庫)であったり、テクノロジーというつながりによって、一種の調和的な悪夢世界を作り上げた伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)などの作品もある。

しかしながら、この緊張した世界の中で、我々はつねに何らかの快楽行為の代償ととして、オブセッションに囚われていることを痛感する。ゲームやインターネットにはまる人たち、仕事に夢中になる人たち。強烈な快楽を伴う行為にはつねに死が伴っており、死が伴う行為だからこそコストを度外視して、快楽を追求する。ある行為の中毒になることは、強制的ではない限り、自分の内的世界がテクノロジーによって変化させられ、それに対応する環境状況に自然と進化・対応してしまっているもの、と考えるとバラードがテクノロジー三部作で発表したことは、現代文明におけるある種の快楽原理を明示してしまったのかもしれない。創元SF文庫で復活したのがありがたい!なお本書は『残虐行為展覧会』の12章も関連しているので、興味のある人はそちらも併せて読むことをお勧めする。

残虐行為展覧会

J・G・バラード『残虐行為展覧会』(工作舎

社会における人類の残虐行為とエロス、テクノロジーを俯瞰し、その中からエッセンスを抽出し、人間社会の究極の法則を帰納的に導出しようという試みの書。J・F・K暗殺、ベトナム戦争、有名人の自動車事故、傷へのオブセッションとエロス、フェティシズムと狙撃のみで記述されるアメリカ史など、バラードは科学的に個別の事象を統計学的な手法で抽出し、帰納的に各事象を抽出し、その結果得られる因果関係を断片的に記述している。この抽出や歴史という壮大な実験観測の考察から、バラードはテクノロジーに対する人々の偏愛的な傾向を、商集合の扱いのようにグループ分けし、分類する。バラードは、オブセッションに囚われた人々を主人公に、ミクロ的な個々の行為もまた何らかの公式に沿っており、それは連続体のように人々に伝播するようになっていることを見出す(第11章では顕著である)。言い換えれば、社会システムが先に存在し、それが規定すると考えるのではなく、個別の要素があり、それらの関係が社会システム全体を規定すると考えている。つまりバラードは個別の要素(自動車事故、セックスなど)に注目し、その間にある関係の記述を形式的にとらえ、冷静に分析にすることに主眼を置いている。

マスコミ、特にカメラを通じた社会における各種の事件の報道や、テクノロジーの発展(自動車や飛行機、核爆弾など)は、社会を構成する要素である我々に影響を与えるものである。社会をシステムとして見出したときに、我々個々人もまた微々たるものではあるが社会に影響を及ぼすと考えるが、人数が多くなればなるほど社会環境から独立し、我々自体は影響を及ぼせなくなる。つまり半孤立的であるような中で、実はオブセッションという形態によって「残虐行為」「興奮」記述できる関係が存在している。その意味では伊藤計劃『虐殺機関』『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)に先立つ形で、バラードは虐殺言語・セックス・フリークス化に対するある種の拡張ユニットとなる要素を抽出し、それらが人間行動を変革させる被説明変数として記述できる回帰的な関係、あるいは一般法則を見出そうとしている。 伊藤計劃的にいえば、「残虐行為」をコード化する何らかの刺激や関係の記述である。

そこでは、時空を超えて(ミンコフスキー空間で記述されているが、空間の歪みを係数(modulus)の変化と捉える。その歪みをもたらすものが、自傷した肉体の変化であったり、事故という聖痕からの生還者の身体・精神的な変化であったりする)展開される対象物と自分との間への対応関係が位相同形(homeomorphism)になることで、同一化への憧れを昇華していく。このテーマは、『クラッシュ』でも引き継がれていく。またバラードは人間がもつ「オブセッション」の力を評価し、その結果はある種の仙人的な超人への道であると考えている節がある。ある種のイニシエーションにより、「一般人」との乖離により「権利」を得た主人公たちは、自分の願望(want)から内的世界を通じたシステムの変革を望む。つまり主人公たち自体が媒介変数あるいは説明変数となり、システムを変化させる役割を果たす。この変革を通じて主人公たち自体が社会環境そのもの(被説明変数)となり、環境システムの一部となる。このフィードバックの過程こそが、バラード的なのだろうと感じる。

このたびバラードのテクノロジー三部作、『残虐行為展覧会』を読んでクリアになった部分も多い。ネットを通じた形で我々はバラードの世界を体感している。バラードの作品においては、「死の大学であったり、残虐行為を展覧できる会場」が出ていたが、まさにインターネットはその役割を果たしている。このインターネットの中に数多く存在するポルノ、自動車事故の犠牲者、戦争のむごたらしい犠牲者、四肢切断者の写真や動画など、我々を日々刺激する関係性が普遍的に入手できる状況になっているという意味では、テクノロジーのストレスにより、日々変革にさらされる環境にあるといえる。ネットを通じて我々はバラードが小説世界で予言した事象をそのまま無意識のうちに、実行してしまうのではないだろうか。入手が難しいのが残念(訳者は横山茂雄さん)。バラードと松岡正剛トークもナイスで、バラードの人柄が垣間見れます。

残虐行為展覧会



J・G・バラード『残虐行為展覧会』(工作舎

社会における人類の残虐行為とエロス、テクノロジーを俯瞰し、その中からエッセンスを抽出し、人間社会の究極の法則を帰納的に導出しようという試みの書。J・F・K暗殺、ベトナム戦争、有名人の自動車事故、傷へのオブセッションとエロス、フェティシズムと狙撃のみで記述されるアメリカ史など、バラードは科学的に個別の事象を統計学的な手法で抽出し、帰納的に各事象を抽出し、その結果得られる因果関係を断片的に記述している。この抽出や歴史という壮大な実験観測の考察から、バラードはテクノロジーに対する人々の偏愛的な傾向を、商集合の扱いのようにグループ分けし、分類する。バラードは、オブセッションに囚われた人々を主人公に、ミクロ的な個々の行為もまた何らかの公式に沿っており、それは連続体のように人々に伝播するようになっていることを見出す(第11章では顕著である)。言い換えれば、社会システムが先に存在し、それが規定すると考えるのではなく、個別の要素があり、それらの関係が社会システム全体を規定すると考えている。つまりバラードは個別の要素(自動車事故、セックスなど)に注目し、その間にある関係の記述を形式的にとらえ、冷静に分析にすることに主眼を置いている。

マスコミ、特にカメラを通じた社会における各種の事件の報道や、テクノロジーの発展(自動車や飛行機、核爆弾など)は、社会を構成する要素である我々に影響を与えるものである。社会をシステムとして見出したときに、我々個々人もまた微々たるものではあるが社会に影響を及ぼすと考えるが、人数が多くなればなるほど社会環境から独立し、我々自体は影響を及ぼせなくなる。つまり半孤立的であるような中で、実はオブセッションという形態によって「残虐行為」「興奮」記述できる関係が存在している。その意味では伊藤計劃『虐殺機関』『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)に先立つ形で、バラードは虐殺言語・セックス・フリークス化に対するある種の拡張ユニットとなる要素を抽出し、それらが人間行動を変革させる被説明変数として記述できる回帰的な関係、あるいは一般法則を見出そうとしている。 伊藤計劃的にいえば、「残虐行為」をコード化する何らかの刺激や関係の記述である。

そこでは、時空を超えて(ミンコフスキー空間で記述されているが、空間の歪みを係数(modulus)の変化と捉える。その歪みをもたらすものが、自傷した肉体の変化であったり、事故という聖痕からの生還者の身体・精神的な変化であったりする)展開される対象物と自分との間への対応関係が位相同形(homeomorphism)になることで、同一化への憧れを昇華していく。このテーマは、『クラッシュ』でも引き継がれていく。またバラードは人間がもつ「オブセッション」の力を評価し、その結果はある種の仙人的な超人への道であると考えている節がある。ある種のイニシエーションにより、「一般人」との乖離により「権利」を得た主人公たちは、自分の願望(want)から内的世界を通じたシステムの変革を望む。つまり主人公たち自体が媒介変数あるいは説明変数となり、システムを変化させる役割を果たす。この変革を通じて主人公たち自体が社会環境そのもの(被説明変数)となり、環境システムの一部となる。このフィードバックの過程こそが、バラード的なのだろうと感じる。

このたびバラードのテクノロジー三部作、『残虐行為展覧会』を読んでクリアになった部分も多い。ネットを通じた形で我々はバラードの世界を体感している。バラードの作品においては、「死の大学であったり、残虐行為を展覧できる会場」が出ていたが、まさにインターネットはその役割を果たしている。このインターネットの中に数多く存在するポルノ、自動車事故の犠牲者、戦争のむごたらしい犠牲者、四肢切断者の写真や動画など、我々を日々刺激する関係性が普遍的に入手できる状況になっているという意味では、テクノロジーのストレスにより、日々変革にさらされる環境にあるといえる。ネットを通じて我々はバラードが小説世界で予言した事象をそのまま無意識のうちに、実行してしまうのではないだろうか。入手が難しいのが残念(訳者は横山茂雄さん)。バラードと松岡正剛トークもナイスで、バラードの人柄が垣間見れます。

天になき星々の群れ

長谷敏司『天になき星々の群れ』(角川スニーカー文庫

『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)が面白かったので、デビューしてからの2作目を読んでみた。『楽園』は、「平和」のメッセージ性の強かった小説だったのが、本書はあえて異なる二人のタイプのヒロインを登場させ、その心理的な側面を描くことによって、海賊に支配され分断された社会での抵抗活動を描いた小説である。読み終わったあとの感じは前作の『楽園』に近いものの(テーマは同じだが)、人間の心の闇を加えることにより、作者の伝えたかったテーマがより強調された形になり、温かい気持ちになった。個人的で、読んだことのない人には申し訳ないのだが、鷹城 冴貴氏のまんが、特に<カルナザル戦記ガーディアン>の読了感に近かった。両者が異なる点は<カルナザル戦記ガーディアン>は主人公が男性で、戦うことを選ぶ少年と平和を説き、明日を信じる少女との対比。また二人には守護者と被守護者の役割が割り振られ、ともに対称的な立ち位置にある。

物語は惑星レジャイナで工作員としてある人物を暗殺するため潜入したフリーダと天真爛漫で平和主義者のアリスの二人の女の子がルームメートとして一緒になるところからはじまる。惑星レジャイナは過去の負の遺産により街の東と西で住人が対立しており、ともに有力なメンバーが街を統一しようと望んでいた。フリーダが暗殺を成功させた矢先、突如4隻の海賊による宇宙からの襲撃がおこなれ、街は大混乱に陥る。危険な機械兵が跋扈する中、フリーダとアリスは街の人々とともに、地下に潜伏し、レジスタンス活動を行うのだが…。

徹底してリアリストで、偽人格を植え込まれ、それが消去できない暗殺者フリーダと徹底して楽観主義で平和主義者のアリス(これは前作『楽園』の少女マリアとかぶる)を登場させる。任務を全うしようとするフリーダのこころをかき乱すのがアリスで、徐々に彼女の存在が邪魔なものからいとおしいものへと変遷していく。アリスもまた、不屈の意志で平和を唱えることで、かたくなだった人々の心を和らげていく。このひたむきさは人々が少しずつ持つ「正しさ」を回復させていく。作中のフリーダのセリフ(p,248)を引用しておく「正しさなんて、本当は、みんな少しずつ持っているの。だから、もし何かより正しいように見えるものがあったら、それは靴底で何かを踏み潰しているのよ。正しさにまとわりつく輝きは、なにがしかの価値を殺した返り血なの」(中略)「…<悪>は正しさを奪って、<作る>ものなのよ…」その通りだよね。

また本書がさらによかったのは、惑星レジャイナにまつわる大きな謎を解き明かす過程にある。この点が実に見事で、なぜフリーダに暗殺が依頼されたのか、そしてどうして多くの人々が死ななければならなかったのかが、明らかになっていく。またレジスタンス活動を通じていがみ合っていた人たちが、協力していく姿もヒューマンドラマとしてよくできている。それを支えていたのは、長谷氏の流れるように頭に入ってくる文章描写にある。異世界描写なのに、情景がまるで目に浮かんでくる。SFやファンタジーにおいて、(今まで自分が吸収した知識で)脳内ビジュアル化ができることは、面白い作品であるかどうかの判断軸になる。作中のセリフ、描写、どれをとっても違和感がなく、第三者のカメラ目線で惑星レジャイナに住まう人たちの息吹が聞こえてきそうである。であとであとがきを読むと、『楽園』の設定の1500万年前となっており、一応世界は連続している模様。本では品切れなのが惜しいところだが、現在は電子書籍版でも買える模様。

天になき星々の群れ



長谷敏司『天になき星々の群れ』(角川スニーカー文庫

『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)が面白かったので、デビューしてからの2作目を読んでみた。『楽園』は、「平和」のメッセージ性の強かった小説だったのが、本書はあえて異なる二人のタイプのヒロインを登場させ、その心理的な側面を描くことによって、海賊に支配され分断された社会での抵抗活動を描いた小説である。読み終わったあとの感じは前作の『楽園』に近いものの(テーマは同じだが)、人間の心の闇を加えることにより、作者の伝えたかったテーマがより強調された形になり、温かい気持ちになった。個人的で、読んだことのない人には申し訳ないのだが、鷹城 冴貴氏のまんが、特に<カルナザル戦記ガーディアン>の読了感に近かった。両者が異なる点は<カルナザル戦記ガーディアン>は主人公が男性で、戦うことを選ぶ少年と平和を説き、明日を信じる少女との対比。また二人には守護者と被守護者の役割が割り振られ、ともに対称的な立ち位置にある。

物語は惑星レジャイナで工作員としてある人物を暗殺するため潜入したフリーダと天真爛漫で平和主義者のアリスの二人の女の子がルームメートとして一緒になるところからはじまる。惑星レジャイナは過去の負の遺産により街の東と西で住人が対立しており、ともに有力なメンバーが街を統一しようと望んでいた。フリーダが暗殺を成功させた矢先、突如4隻の海賊による宇宙からの襲撃がおこなれ、街は大混乱に陥る。危険な機械兵が跋扈する中、フリーダとアリスは街の人々とともに、地下に潜伏し、レジスタンス活動を行うのだが…。

徹底してリアリストで、偽人格を植え込まれ、それが消去できない暗殺者フリーダと徹底して楽観主義で平和主義者のアリス(これは前作『楽園』の少女マリアとかぶる)を登場させる。任務を全うしようとするフリーダのこころをかき乱すのがアリスで、徐々に彼女の存在が邪魔なものからいとおしいものへと変遷していく。アリスもまた、不屈の意志で平和を唱えることで、かたくなだった人々の心を和らげていく。このひたむきさは人々が少しずつ持つ「正しさ」を回復させていく。作中のフリーダのセリフ(p,248)を引用しておく「正しさなんて、本当は、みんな少しずつ持っているの。だから、もし何かより正しいように見えるものがあったら、それは靴底で何かを踏み潰しているのよ。正しさにまとわりつく輝きは、なにがしかの価値を殺した返り血なの」(中略)「…<悪>は正しさを奪って、<作る>ものなのよ…」その通りだよね。

また本書がさらによかったのは、惑星レジャイナにまつわる大きな謎を解き明かす過程にある。この点が実に見事で、なぜフリーダに暗殺が依頼されたのか、そしてどうして多くの人々が死ななければならなかったのかが、明らかになっていく。またレジスタンス活動を通じていがみ合っていた人たちが、協力していく姿もヒューマンドラマとしてよくできている。それを支えていたのは、長谷氏の流れるように頭に入ってくる文章描写にある。異世界描写なのに、情景がまるで目に浮かんでくる。SFやファンタジーにおいて、(今まで自分が吸収した知識で)脳内ビジュアル化ができることは、面白い作品であるかどうかの判断軸になる。作中のセリフ、描写、どれをとっても違和感がなく、第三者のカメラ目線で惑星レジャイナに住まう人たちの息吹が聞こえてきそうである。であとであとがきを読むと、『楽園』の設定の1500万年前となっており、一応世界は連続している模様。本では品切れなのが惜しいところだが、現在は電子書籍版でも買える模様。

光を忘れた星で

八杉将司『光を忘れた星で』(講談社

八杉さんの最新長編。まさか講談社Boxから出るとは思ってもおらず、びっくりしたのでした。本格的なハードSFで、当初はジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(NHK出版)みたいな話かと思ったら、進化生物学的に社会構造を書いたSFでありました。この世界に住む人類はみな「目が見えない」という状況にあり、主人公マユリも退化した視力に代替する「無我の目」と呼ばれる感覚を得るための訓練を受けていた。ところがマユリはなかなかこの第三の能力が発現せず、親友のルーダが能力を開花し、二人の友情の間に亀裂が生じ始める。そんな状況に耐えられなかったマユリは、能力を発動したルーダを追い求めて、施設より(事故的に)逃亡する形になってしまう。はたしてマユリの運命はいかに?

ある惑星に移住した人々が、世代を継承していくうちに全盲になっていく、という設定がM・Z・ブラッドリーの<ダーコヴァー年代記>の惑星環境に順応したダーコヴァー人のようで面白い。ところがなぜ全盲がESS(進化的に安定な戦略)になったのか、そのあたりの理由付けがほしかったと思う。遺伝子の多様性に大きな偏りができた理由が、惑星の過酷な環境であるという前提のもとで視力が欠損した遺伝子が優性になり、視力が欠損・退化していくという理由づけがあれば、さらに納得がいったものになったと感じる。というのは、目を退化させることが進化的に安定的になったのか、という理由がないため、物語の仮定にはある種ジョゼ・サラマーゴ的(突然人々の目が見えなくなる)である。そのためこの遺伝子の変異を仮定したうえで、物語は視力がなく、文明化したものと無我の目を開眼したが蛮人である二つのグループの対立軸へと収束していく。そのため、視力を得られなかったグループが他との差別化をするため、眼球を残している人々を「目玉つき」とし、目玉を除去する社会的な規範を発達させ、社会を形成するあたりがリアルである。その意味で、社会構成と生物学的な均衡が徐々に不均衡化し、再び優性になっていくというダイナミクスが感じられるのが良い。その意味で、進化ゲーム理論と習慣のダイナミズムが物語の根底にあるように感じられ、その二つを書いていこうとした著者の努力を強く感じた。

「なぜ、この人たちは視力を失うような状況になり、それが生物学的進化として優性になったのか」という背景がさらに書かれていれば、ものすごい傑作だったのだが…。視力を失ったときに、人々がどういう世界にあるのか、そういう生々しい息遣いが感じられる新感覚なSFであった。Jコレではなく、講談社BOXから出たのがちょっとびっくりなのだが、ぜひ書店で捕獲してほしいと思う。

光を忘れた星で



八杉将司『光を忘れた星で』(講談社

八杉さんの最新長編。まさか講談社Boxから出るとは思ってもおらず、びっくりしたのでした。本格的なハードSFで、当初はジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(NHK出版)みたいな話かと思ったら、進化生物学的に社会構造を書いたSFでありました。この世界に住む人類はみな「目が見えない」という状況にあり、主人公マユリも退化した視力に代替する「無我の目」と呼ばれる感覚を得るための訓練を受けていた。ところがマユリはなかなかこの第三の能力が発現せず、親友のルーダが能力を開花し、二人の友情の間に亀裂が生じ始める。そんな状況に耐えられなかったマユリは、能力を発動したルーダを追い求めて、施設より(事故的に)逃亡する形になってしまう。はたしてマユリの運命はいかに?

ある惑星に移住した人々が、世代を継承していくうちに全盲になっていく、という設定がM・Z・ブラッドリーの<ダーコヴァー年代記>の惑星環境に順応したダーコヴァー人のようで面白い。ところがなぜ全盲がESS(進化的に安定な戦略)になったのか、そのあたりの理由付けがほしかったと思う。遺伝子の多様性に大きな偏りができた理由が、惑星の過酷な環境であるという前提のもとで視力が欠損した遺伝子が優性になり、視力が欠損・退化していくという理由づけがあれば、さらに納得がいったものになったと感じる。というのは、目を退化させることが進化的に安定的になったのか、という理由がないため、物語の仮定にはある種ジョゼ・サラマーゴ的(突然人々の目が見えなくなる)である。そのためこの遺伝子の変異を仮定したうえで、物語は視力がなく、文明化したものと無我の目を開眼したが蛮人である二つのグループの対立軸へと収束していく。そのため、視力を得られなかったグループが他との差別化をするため、眼球を残している人々を「目玉つき」とし、目玉を除去する社会的な規範を発達させ、社会を形成するあたりがリアルである。その意味で、社会構成と生物学的な均衡が徐々に不均衡化し、再び優性になっていくというダイナミクスが感じられるのが良い。その意味で、進化ゲーム理論と習慣のダイナミズムが物語の根底にあるように感じられ、その二つを書いていこうとした著者の努力を強く感じた。

「なぜ、この人たちは視力を失うような状況になり、それが生物学的進化として優性になったのか」という背景がさらに書かれていれば、ものすごい傑作だったのだが…。視力を失ったときに、人々がどういう世界にあるのか、そういう生々しい息遣いが感じられる新感覚なSFであった。Jコレではなく、講談社BOXから出たのがちょっとびっくりなのだが、ぜひ書店で捕獲してほしいと思う。