リトル・ブラザー

コリイ・ドクトロウ『リトル・ブラザー』(早川書房

情報が一方的に政府によって管理され、抑圧された近未来のアメリカの姿を描いたポリティカルフィクション。小説のタイトルが占めるように、ジョージ・オーウェル1984年』(ハヤカワ文庫epi)へのオマージュ作品である。「日常から非日常への変化」が起こり、自分の身に災厄が襲いかかって時に、恐怖に支配された人たちの反応を皮膚感覚で感じられる小説である。通常、われわれは「基準となる」参照点を持っており、その主観的な参照点をベースに日々の生活を行っている。その基準が大幅な変化がもたらされたときに、僕たちはどのような行動を起こすのか、そのスタンスを問われている。本書は、国家による恐怖をコアにした一方的な情報統制と抑圧のための暴力をテーマに、一人の少年が味わった国家による一方的な抑圧への恐怖への抵抗を描いた快作である。

サンフランシスコ湾でのテロをきっかけに、ゲーム好きな平凡な4人の高校生の人生が百八十度変化してしまう。主人公のマーカスと友人たち3人はゴールデンゲートブリッジを破壊したテロリストの容疑者としてDHSに拘束される。マーカスとほか2人は解放されたものの、幼友達のダレルだけがその後解放されず、行方不明のままになった。DHSによって自分のプライバシーを丸裸にされたマーカスはその恥辱と恐怖心の中、ダレルのためにDHSに対する抵抗を試みる。DHSがまだ手を付けていない領域、Xボックスを改良し、パラノイアリナクスというOSを作り、チャットなどで同調者を募り、DHSに対する抵抗を試みていく。

前提知識として911後にアメリカで起こっている変化について知識があると、この作品の意味がよくわかる。たとえば堤未果『ルポ 貧困大国アメリカI・II』(岩波新書)、『社会の真実の見分け方』(岩波ジュニア新書)、町山智浩アメリカ本などの本を利用しておくとより楽しめる。アメリカ社会の変化は、アルカイダとの戦い(先日殺害されたビン・ラディンが率いている)を大義名分として、さまざまな分野で戦うための兵士を得るために、実に賢いやり方で一般市民や市民予備軍の人々をイラクアフガニスタンで戦う兵士として駆り出した。この日常から非日常への転換による、社会の空気の変化というのが本書の大きなテーマである。

マーカスの父親は「テロに対する対応として政府による統制」を正当化し、セキュリティ強化を問題なしとする。つまり当事者であるかそうでないかによって、それぞれ対応が変化してくる。つまり人は局所的に、皮膚感覚で体感したことについては当事者意識を持ち、敏感に対応することができるが、そうではなければ「他人事」として思考停止に陥ることが多いということだ。社会の情勢がどちらの人々が多いかにより、グランドデザイン自体が変化することがある。その結果、民主主義の制度からは「独裁者の意見」が全体の民意を反映することもありうる。このような状況をドクトロウは、政府による過剰なコントロールに対して、どう立ち上がるのか、多様性をどう保ち続けるのかを一人の少年の抵抗運動に託して描いていく。多数の意見が正しいこともあるが、意図的な操作による多数派の形成は排除されなければならない。マスコミによる情報コントロールが強化されることにより、多様なソースから情報を選択する機会を失われることこそ(ただし、多様なソースから正しい情報を選択できない、という問題もあるがそれはまた別の話)、危惧すべきことであると考える。その結果、意図的な多数派の形成により、悪法も法になりうる。これはソクラテスも言った言葉だが、民意が反映するということはまさにこの危険性も存在しうるということだ。

社会システムと個人の在り方はきわめて難しい問題をはらんでいる。有限資源しかない社会のリソースをどう効率的に配分するのか、問題の原点はそこにある。社会のパイを大きくした後に、どう配分するかは「民主主義」というルールのもとで、決定が行われている。社会のパイを大きくするためには「多数派」を形成する必要があり、情報が統制されるということは意図的に「情報の非対称性」を作り上げるということである。政府と個人の間での情報格差を人工的に作り上げることにより、あるいはかく乱することにより、社会をコントロールすることは民主主義のシステムでは可能であるということは、過去の歴史が証明している。古来より「情報を握る」ことは支配を優越にし、権力者に権威を与える行為でもあった。

また一つ言及しておくと、XBOXをハックする行為でもそうで、企業は情報・技術を独占することで、独占利潤を得ている。ここでXBOXに象徴させたのは、ドクトロウの皮肉でもある。何らかの形で競合社が出ることは、競争の力を利用して質を高めるということにつながるわけで、よりよい技術が生まれる可能性が高い。その意味で本書は、ある主体による「独占」という行為に対するアンチテーゼをテーマにした優れた社会小説であるといえよう。 今の社会を知るうえで、必読の近未来小説だといえる。