ひとりっ子



グレッグ・イーガン『ひとりっ子』(ハヤカワ文庫SF)

7編が収録された日本オリジナル編集の短編集。

これで現行で日本語翻訳が出ているイーガンの小説はすべて読んでいることになるのだが、今回は以前出た『祈りの海』『しあわせの理由』よりもコンセプトがはっきりと明示されており、かなり分かりやすい。面白かったのは「ルミナス」「ふたりの距離」「オラクル」で、特に僕は「ルミナス」が好きだ。「ルミナス」のおもしろさは、特に数学基礎論をかじったことのある人なら、絶対楽しめるはず。

今回は特に「ルミナス」に注目し、個人的に考察してみたい。「ルミナス」は、数学の公理体系の無矛盾性をネタにしている。現代我々の数学はZermelo-Fraenkelの公理系(+選出公理)の礎のもとに成り立っている。1931年にゲーデルは「ZFにどのような公理系を付け加えても、そうして得られた体系が無矛盾ならば論理的命題Pで、Pもその否定命題P’もその体系によっては証明不可能なものが存在する」という有名な不完全性定理を証明している(注1)。このZF体系は自然数などの諸概念をかっちり再構成することに成功しており、我々の数学体系というのは実はナイフエッジの上に成立しているともいえる。イーガンはそれに対して、スーパーコンピュータールミナスを登場させ、我々の公理系とは異なる数学体系との「境界」を発見し、ヒロインが別の体系を排除しようとする話である。

(注1)たとえば、彌永昌吉&彌永健一『集合と位相』(岩波書店)の128ページまでに、ややテクニカルだがZFの体系の直観的説明とその構築の仕方が掲載されている。このあたりをより砕いた形で抽象代数学について分かりやすい説明をしている本としては彌永昌吉『数の体系』(岩波新書・全2)が詳しい。

数学の体系というのは当たり前のことをいかに論理的帰結から導いていくか、ということにある。公理系はその中でも特に、数学のシステムを構築するための前提であることに注意されたし。ここで、主人公たちはZF公理系とは異なるような数学体系を量子コンピューター内でステートメントを変化させてシュミレートとし、その結果フラクタルのような形状の数学の境界線を明らかにする。

とまあ、数学の系というのは実に膨大な島宇宙のようなもので、当然われわれが現状で使っている公理体系に属さないような数学体系も存在するということに注意したい。疑問としてはやはり、どのようなチェックがなされて、境界をマップしたのかというのは僕の想像力の限界を超える。つまりいかに量子スーパーコンピューターでも、有限のキャパシティの中で果たしてどれだけステートメントを変えて、演繹して帰結を導くのかは疑問(停止問題もこの短編集の「オラクル」で扱われていましたが)。ただ感覚的には、違った数学体系を利用した世界もあり得るという可能性を、人工生命やフラクタルの様相を付け加えて、視覚化したことがこの話の面白いところだ。

またイーガンは、チューリングテストをネタにした物語を本短編集でも描いており、人間機械論的な見方を強調しているがために、妙に潔癖な印象を受ける。そういった意味では、物語に透明感があると感じる。たとえてみればイーガンの作品は読んでいると、[0,1]集合の中にいるような感覚に襲われる。そしてもう一つ重要なのは、「選択」である。選択をするという行為が実は突き詰めてみれば、生理的な反応であると考える見方もまた提示されており、『順列都市』や他の短編集の短編で取り上げられたネタを継続的に利用しているあたりに、イーガンの興味のほどがうかがえる。

ということで、女性描写は相変わらず下手くそでロボットっぽいのだけど、扱われているネタが面白いのでイーガンを読むのは楽しい。