口ひげを剃る男



エマニュエル・カレール『口ひげを剃る男』(河出書房新社)

友人が強烈にお勧めしていたので、読むことにした。「ぼく、口鬚剃っちゃおうかな?」の一言で始まり、「…心は安らかだった。」で終わるこの本、まさかこのひと言からよくこんな話に発展させたものだ、と感心したわけだが、テイスト的には毒がない筒井康隆みたいな感じ。なんともいいようのない読了感が漂う本で、読んでいる自分まで何がなんだかわからなくなっていく迷路感にとらわれていく。このぐるぐる感と閉塞感がいつしか、物語の解体=主人公の自我の解体に向けての準備につながるとはまったくもって油断ならない小説であった。

人は意外と瑣末なことを記憶していて、そのずれというのは他人にとっては大したことがないことでも、本人にとっては実はたいしたことではない、という価値の違いから生まれる悲劇というのが多々ある。本書では特にその点を「口鬚」に主眼を置き、10年ぶりに口鬚を剃った主人公が口鬚を剃ったのに、皆からそのことを当然だと思われることに対する違和感を表明したら、その違和感からさらに…という展開に発展していく。つまりズレの連鎖をうまく人間関係の心理に応用させた、というのが本書の面白さである。このことは、心理学におけるヒューリスティックな問題を取り上げているという意味でも、実に面白い。つまり主人公は「自分が口鬚を剃った」ということを他人が当然認知してくれるという、利用可能性ヒューリスティックによって人々がそのように思うと高い頻度で起こると思っていたことが、まったく起こらなかったという点に著者は焦点を当てていく。

この主人公が考えていたところの利用可能性ヒューリスティックの乖離が、この小説の不条理感を捉えるための大きなカギとなっていくという意味で、人間関係という日常性というのは実は社会的なバイアスやその事象がおこりうるであろうという勝手な人間の主観的確率によって成り立っていることが多いといえる(これはある種の代表性ヒューリスティックの重なり合いだと考えられる)。それ以外の事象は勝手に脳が「ありえない、自分ではコントロールできない自然」として判断すると考えるのが自然だと思われる。本書では、そのヒューリスティック的バイアスを徹底的に歪めることにより、主人公と妻アニエスの関係すらも分解し、最終的には主人公の心の安らぎ(La Mort)へとつながる旅でもある。この過程に至るまで、他人のタイプがAであるというタイプに対する信念へのぶれが潜在的ベイズ確率で計算できなくなることにより、主人公は相手がどのような戦略を立てるのかも、主観的確率で推測できなくなり(前半では、status quoに戻そうとする、慣性の力が働くのだが)、コンテクストの解体=主人公の崩壊へと向かう。

ということを考えてしまった小説。ラストにはびっくりなのだが、取り憑かれた主人公にはあのラストしかないのかもしれない、と僕は感じた。映画版は2005年に公開されている模様で、フランス映画祭で公開されたみたい。日本ではDVD化しないと見たのだが、英語字幕で見れるのであればこの映画はぜひ見てみたい(作者本人が監督をしている、ということもあり)。