フィーメール・マン



ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』(サンリオSF文庫)

ジェンダー論をやる人は読んでおかないといけないSF。それ以外の人は別に読まないでもいい男性社会へのルサンチマンが爆発噴火したニューウェーブSF。以前ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』(インスクリプト)を読んだ際に「この人は何でこんなに男性を嫌うのか?」と思ったわけだが(本自体は検証を含めてなかなか面白い話になっていたわけだが)、過激なフェミニストは僕は肌に合わないということを思い知らされた一冊だった。何事も適度であるべき、と僕は感じるわけで、これはジョアナ・ラスにとっては大変もったいないことだと思う。

ラスがデビューした当時の社会情勢を考えると同情すべき点はある。ジェンダーの問題は今でもナイーブな問題であり、SFという手法によってジェンダーの問題を埋め込むことにより、いかに男性が女性を虐げているのか、ということをメッセージを込めて世間に知らしめることにより(これは本書でもラスが最後に述べている)、世間の意識を変えていこうというアジテーションの戦略であったと考えることができる。同時期に活躍しているル=グィン、ケイト・ウィルヘルムらは物語性というオブラートによってかなり和らげているが、本書の場合はオブラートなしに4人の自分の分身が男性という性がいかに粗暴で愚かなのか、そして女性を性の対象にしか見ていないのかを挑発的に描いていく。特にその文体はあえて粗雑にすることにより、胸をむかつかせるような電波文になっているので、あんまり読んでいて気持ち良くはない。つまり小説としてはまったく面白くないのだが、異様な迫力によって読めてしまうのは恐ろしい。

ラスの求める社会像は、男性が滅亡し、女性が男性(MEN)になることによって男性の役割を奪うというものである。その社会では女性が男性の暴力性を帯びることによってのみ実現する社会であり、歴史や社会などが生み出してきた女性というものに与えられてきた役割を風刺(Satire)として挿入したり、自分の分身に割り振ることにより、ジェンダーの差を漸近的に(あるいは完全に)なくしていこうという話ではある。女は社会によって女になるという有名な言葉があるわけだが、ラスはあえてホワイルアウェイという男性が滅亡し女性のみのユートピアから来た未来人ジーニインを登場させることにより、20世紀の男性社会がいかに抑圧的で馬鹿らしいのかを滑稽に描くことに成功している。ラスの社会では女性は生き生きとしており、社会を規定するわけだが、それは果たして正しいのかというとそうではない気はする。ラスはあえて男性社会に同化しそれを超える性として、女性の進化を取り上げることにより、女性が支配するユートピアを描こうとしたわけだが、そこには男性はいないという部分に注意したい。女性解放=男性の不在であるのならば、何かしらの間違えであると思う。

その流れは英語における昨今のジェンダーに対する配慮が挙げられる。たとえばBusinessmenだったのがBusinesspersonになったり、menとなっていたものが中立的なpersonになってきているという流れや、学術論文でも断り書きが出てくるぐらい、意識改革は出来ているという部分もある。つまり、男性と女性のよい部分をうまく配合し、それにより調和を図っていく共生の社会に向けての意識改革はフェミニズム運動の成果もあり徐々にではあれ浸透していると感じる。そういう意味では、ラスの仕事はアジテーターとしての役割、ある種の過激派として広報宣伝を行ったというのがぼくの本書への感想だ。今ならまさに、Female Personですなぁ。まとめるとケイト・ウィルヘルムやル=グィンの方が一貫性はあるし、流行に乗ったという感じではない本質部分をついた小説が多いわけだが、ラスの場合はスキゾ構造にすることによって70年代の社会構造を批判した書と感じた。

という意味では、大変政治的・社会的なSFではあるので毒は強いはず。娯楽SFとしては読めない小説なので、お勧めはしません(精神状態がいいときのみ読むことをお勧めします)。