エデン



スタニスワフ・レム『エデン』(ハヤカワ文庫SF)

最近紀伊国屋のレム祭りにより復刊した模様。『ソラリス』(国書刊行会)、『砂漠の惑星』(ハヤカワ文庫SF)とともに<ファーストコンタクトもの>の三部作を構成しているというSFで、紋切型だったファーストコンタクトものに対して一石を投じた作品だ。ぼくはこのレムのスタンスこそが、今の世界を理解する鍵だと信じている。SFのアプローチの仕方は個々人異なれど、レムがSF界で活動したことには意味がある。つまりレムの作品はストレートなわかりやすいSFではなく、渦(Vortex)的な思弁形態をもつために読者にも参加を求めるタイプのSFのため、読み終わったあとに何かしら自分の心の中にさざ波が立ってしまうのではないか、と感じた。

本書を含む三部作では、ファーストコンタクトに対するレム流の文化の解釈が提示されていく。本書では代表的な6人の科学者たちが主人公となり、惑星エデンに不時着した際に起こるファーストコンタクトを描いている。この6人の構成は、物理学者、コーディネーター、サイバネティスト、ドクター、技師、化学者の6人で、それぞれの分野を生かしながら専門的な視点でエデンを多面的にとらえようと試みていく(これはヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』的でもある)。その過程は人類学的であったり、科学的であったり、社会学的であったり、組織論的でもあったりする。このエデンへの理解はまさに、自分とは異種の文化を理解するための試行錯誤過程であり、レムはこの中で特に人間はいかに自分の文化という幻想のバイアスに囚われているのかを提示し、その見方に対して警鐘を鳴らす。そのことは本書145ページでのドクターのセリフ「われわれは人間として受け止める。地球式に連想を働かせ、判断を下している。その結果、異質の外見をわれわれの真実として受け止める。つまり、ある事実を地球から持ち込んだパターンにはめこむことによって、重大な誤謬を犯さないともかぎらない」が端的に示している。

日本人SF作家で本書におけるレムの文化史観に似ているのは眉村卓である。特に<司政官>シリーズではそのことが丹念に示されるので、レムとの比較はもっとなされてもいいかもしれない。つまり異星人文化というのは理解可能である、という幻想は捨てるべきであるというスタンスから、人為的な干渉はしてはならないという「自然なまま」であることがファーストベストであれば、<司政官>シリーズでは原住民との共生を考えているセカンドベストの解を求める旅でもある、と考えることができる。ここではまさに利益相反がおこり、その対応方法がレムと眉村では異なるということになる。つまりレムでは結果的に異文化は理解できないものという前提があり、そのまま放置するか同化する(ソラリスで提示される)という解を提示されるものの、<司政官>では連邦の利得を最大化するという目的があるために、たやすくは放置できず、一応ある程度の理解ができた、ということで共生の方向に向かうということになる。そうでなければ、皆殺しにすればいいというもの(これは本書でも出てきた解であり、次善以下の解である)。これはまさに最大化する目的関数の違い(レムの場合は不時着やらファーストコンタクトであって、支配ではない)であって、多文化の尊重という点では二人とも一致しているように感じた。

と勝手な解釈をしてみたのだが、僕もレム同様情報の不確実性がある状況ではすべてはセカンドベストの解にならざるを得ないということを経済学の理論から知っているので、レムのスタンスに共感するんだよなぁ、と感じる。特に大きな動きはないのだけれども、眉村卓さんの小説同様、いろいろと考えさせられる一冊。