ザ・ロード

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

世界のイメージはくすんだ灰色。『ザ・ロード』の世界は強いていえば、血の赤のみが時折存在する灰色の世界だ。すべてがくすんだ灰色の単色の中に閉じ込められ、父と子の旅を通じて読者もまた灰色の世界の中の虜囚になってしまうだろう。世界は息苦しく、思考が停止してしまっている煉獄。すべては触ればもろく砕け、灰から灰へと転換するだけ。しかし、この絶望的ともいえる世界に「火を届けるため(Carry the fire)」に旅する主人公の父子は修羅道ともいえる息苦しい世界の中を旅する。生から死、死から生への回帰の物語でもあり、詩的な散文で記された世界は音楽的ともいっていいほど、美しい。それは特に二人の会話文の記述部分にあり、あえて会話文とせずに灰色の物語の中に情景描写として取り込むことにより、彼らをも情景の一部としてしまったマッカーシーのセンスに脱帽する。

ジャンルとしては破滅SFに分類されるのだが、この系譜の小説は過去にもたくさん存在する。比較するのはおこがましいのだが、レファレンス的に知っておくのはいいことだと僕は思うので、記しておく。僕がまず想起したのはデイヴィッド・ブリン『ポストマン』(ハヤカワ文庫SF)だ。そしてキム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』(ハヤカワ文庫SF)である。この二作品はともに荒廃したアメリカを記した作品なのだが、両者には少なくとも修羅的な要素はなく、人肉を食うまでの悲惨な状況には陥っていないという点では、まだ希望がある世界を描いているが、マッカーシーはそれすらをも許さない。ミクロレベルでの修羅の世界を徹底して描くことにより、人間が人間であるための良心の権化でもある少年を強調する。これはまさにマッカーシーが作品内で意図するところであり、時には激高して獣道に陥りそうになる父親を自制させる存在でもある。

つまり世界は完全に狂ってはいても、少年は絶対的な善として父親に保護されることにより、善き人であるということの大切さを物語の随所で強調していく。行幸に恵まれていると感じる人も多いだろうが、それは「火を届けるもの」として、獣にならない二人への「善き存在」からの恵みだと考えるほうが自然かもしれない。つまりザ・ロードには少年と父親が踏破するための道だけではなく、「火を届けるもの」としての善き人への道でもあるのはいうまでもない。宗教というよりもむしろ、人生の中で学ばなければならない教訓をもこの本は破滅SFという設定の中で行っていることがすごいのだ。息苦しい世界の中で、まさに死ぬことが定められている我々においても、損得なしに利他で動くことというのをこれほどまでに切々と書ける作品はなかなか見当たらないだろう。

設定こそはSFであれど、人間の本質というのを鋭く捉えているという意味では、ザ・ロードの世界は大変思慮に富んでおり、文学を読めてよかったと思えることも多いだろう。黒原敏行氏の訳もすばらしい(当然、マッカーシーの翻訳を過去手がけてきた氏だからこそ、できた芸当だ)。読者は良心の「火」を絶やさない父と子とともに、廃墟や死体描写などを含む綿密な世界描写の中、マエストロ、マッカーシーとともに地獄を歩むことになろう。