九百人のお祖母さん

R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫SF)

なぜかわからないのだが、スルーしてきた作家のひとりで、今回ようやくじっくり時間をかけて読むことができた。実際読み終わるまでに3週間ほどかかった。というのは、21短編の大半が気が抜けないタイプのものが多くて、かなり精神的な体力を使うものが多かったといっても過言ではない。ラファティの世界の見方は「世界はジョークでできている」という今の世界の現状を鋭くえぐりだしていることもあるだろう。特にここのところのアメリカの現状をみていると、ラファティの短編で出てくるようなジョークとイベントで満載され(たとえば、9・11なんかそうで、救急車コールのための番号に合わせてあんなやらせのテロをおこしますかね?)、現在は冗談としかいいようがない世界情勢が続いている。強いて言えば、世界の支配者層はギリシア神話の神々の如く気まぐれでいたずら好きで、ジョークで世界を動かしているということに気がつけば、何ということはない。ラファティの短編で語られる世界であって、僕らはジョークで受け流す感覚を身につけることができるだろう。テイスト的にやや似ている(ように僕が感じた)ヴォネガットと決定的に違う点は、ラファティは徹底して世界はジョークとほらで構築されているという点にあり、ヴォネガットは個人体験から来ているために、まじめなのだ。

ラファティの短編はどれも突拍子もなく、尋常じゃないジョークで物語が構築されているためか、ストーリがまったく読み取れないという不確実性によって物語が支配されている点が興味深い。我々は経験的に物語のパターンについてある程度の確率分布を予測しながら物語をカテゴリー化し、予期できる形で読み進めることが多い。ミステリというのは不確実性を嫌う小説であって、必ず物語はある種の収束を見る。ミステリが好きな人はある種、確実性という等価を楽しむ読者群によって構成されているように思えるのは、たぶん舞台・人物などのプレイヤーや環境がきちんと成立しているからだろう。しかしラファティのSF短編には、まったく予想がつかない方向性で物語が進行していき、僕自身不確実性に支配されたまま(わくわくしながら)、楽しむことができた。これはまさに、僕がSFに求めているものであり、アイディアの奇抜性について、ラファティは変すぎるという点に帰着する。その点、イーガンに代表されるハードSFというのはある程度の物語の予測がつき、論理で推測できる(確率分布を予想できる)部分があり、ミステリと類似している点もある。もちろんこれらに類する小説はヒューマンドラマや、壮大なスケールで圧倒される物語が多く、違った形で楽しめるSFカテゴリーだと僕は最近感じるようになっている。

物語が予測できないという不確実性への面白さを具現化したのはラファティで、初読の僕はこの不確実性につまった短編集を実に楽しく読ませてもらった、といってもいい。直感的にではあるが、ラファティは数学的な素養がたくさん詰められていて、トポロジーや位相的な側面(他人距離と自分距離の位相や、九百人のおばあちゃんな話とか)も実に多く、そして多様でもある。さらにはそれらの要素だけではなく、その要素要素をブロック的にジョークという接着剤で物語を構築していることからわかるように、21の短編はほぼどれをとってもアイディアよし、ジョークよし、サプライズありのどれをとってもあっぱれ、見事としかいいようがなかった。

そしてそれが、今の現代世界にあり得そうな(僕らが気が付いていないだけかもしれない)事象をラファティ流に解釈しているため、面白いのだ。「時の六本指」「日のあたるジニー」は、実際にいてもおかしくはない存在であって、僕らが単に気が付いてないだけなのかもしれない、というように、徹底して気色悪く書かれるので、ぞっとする。そして経済学的に読んでも面白かったのは、現代社会の超短縮図「スロー・チュースディ・ナイト」である。ここには現在の社会の縮図がすべてちりばめられ、世相や流行、栄華というのを見事にブラックユーモアな形で包み込んで、要約される。この短編の面白さは今の世界情勢を見れば一目瞭然である。<カミロイ人>関連の短編も体制論として面白く読める。この小説のおかしさは、民主主義や集団体制や義務というのを徹底して茶化していて、エリート層の社会とそうでない人々の社会の区分けを見事に提示しているあたりがものすごくおかしい。

他の短編集も早々に読むことにするのだが、不確実性をマキシマムに伴う小説なので、きっと時間がかかるのではないかと思う…。