ノヴァ



サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』(ハヤカワ文庫SF)

名作なのに読んでいなかった本の一冊で、ディレイニーで読み残しだったもの。本の整理で新版が浮上してきたので読んだ。これで一つ年内に重要な積み残しが消えたのでほっとした。本書は『エンパイア・スター』などと同様、読者の知的レベルを測る小説で、ある程度の教養や読書力がないと表層的な物語だけで終わってしまう。そういった意味ではジーン・ウルフケルベロス第五の首』(国書刊行会)と同様、読者に対する挑戦の書でもある。実は以前、本書を読むのは挫折したのだがこの年代になってある程度「脳力」がついてきて、物語の中にある調和と構造にぞくぞくした(数学的文学というか)のだった。

周知のようにディレイニーは物語をメタレベルで重層化する作家なので、何度か読まないとわからないことも多い。ある種、デヴィッド・リンチ的な手法を用いている感覚はある。『ノヴァ』は『アインシュタイン交点』よりは物語としてはすっきりとしていて、一層目はスペオペ、二層目は聖杯伝説、三層目は誕生と死のコントラストという感じで、三層の物語の間の調和を純粋に楽しめる。これは『エンパイア・スター』でも感じたことだけれども、基本的には冒険譚であるがゆえに、冒険譚の殻につつまれた本質的なコアの部分が見えにくい部分はある。西洋では割と普通に知られている聖杯伝説とタロットカードの文化は日本ではなじみが薄いため、タロットカードとアーサー王伝説の人物と物語の登場人物との対応なども考えないといけない、という意味でも前提知識がある程度あると楽しめる作品といえる。

もちろん表層的な物語が一番面白いため、何も考えないで読むのもまた一興。ピカレスク小説、復讐劇が混じりあり、二つの巨大な金持ちの勢力がノヴァで得られる超元素イリュリオンを求めて争う話でもある。超新星の中へとエネルギーの供給減となるイリュリオンを求めてリスクをとる船長ロークとそのクルーたち。彼らは一心同体となって、彼の顔を崩壊させた片手が義手のライバルのプリンス・レッドとその美しき妹ルビーとの争いに決着をつけ、覇権を握るため、ノヴァが起こりつつある星域へと向かうのだが…。

物語は個性的なクルーたちに支えられ、タロットの予言、そして聖杯伝説の予言と対応した形で物語が進行していく。ユニークなのは言語で、プレアデスの言語は日本語と語順が同じの英語。訳者の伊藤典夫氏の苦労がうかがえる訳語があてられており、敢えて方言を導入することでタロットの部分がトリック的に展開されていき、神秘的な雰囲気で予言を推測することに。聖杯、イリュリオン=力の源であるというアナロジーを考えてみても、ディレイニーはSFという準拠枠の中で新たな聖杯伝説を紡ぎだしたといっても過言ではない。

興味深いのは彼らが訪問する世界の世界観が、ダンテの神曲的にも感じられる。出てくる世界はどちらかというと、薄気味悪く、猥雑で、煉獄的でもある。そこでトリックスターとして活躍するのは愚者=マウスであって、マウスの存在こそが実はこの小説の性格を特徴づけている。彼にとってはいっさいの計画性を持ち合わせていないが全くの無計画というわけでもないこのノヴァでの旅について、行き当たりばったりでも彼自身の人格や徳によって、ロークの旅を間接的にサポートしていく。他のメンバーについても、それぞれタロットに特徴づけられたクルー(特に物語の書き手となるカティンの存在は重要で、作者=記憶者の視点として物語を完結させていく。そして彼はノヴァの衝撃に耐えて、運よく、ノヴァを見ても生還する人物でもあった。

文学的な解釈についてはプロの方々に任せるとはいえ、さまざまなシンボルが物語の中で錯綜し、ただのスペースオペラにとどまらない傑作であることはまごうことない。うまく説明するのは難しいのだが、言語を取り扱った『バベル―17』や物語の循環性にウェイトを置いた『エンパイア・スター』とは異なれど、どちらかというと『アインシュタイン交点』の寓話性に近いSF小説なのだ、と感じた。

サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』(ハヤカワ文庫SF)

名作なのに読んでいなかった本の一冊で、ディレイニーで読み残しだったもの。本の整理で新版が浮上してきたので読んだ。これで一つ年内に重要な積み残しが消えたのでほっとした。本書は『エンパイア・スター』などと同様、読者の知的レベルを測る小説で、ある程度の教養や読書力がないと表層的な物語だけで終わってしまう。そういった意味ではジーン・ウルフケルベロス第五の首』(国書刊行会)と同様、読者に対する挑戦の書でもある。実は以前、本書を読むのは挫折したのだがこの年代になってある程度「脳力」がついてきて、物語の中にある調和と構造にぞくぞくした(数学的文学というか)のだった。

周知のようにディレイニーは物語をメタレベルで重層化する作家なので、何度か読まないとわからないことも多い。ある種、デヴィッド・リンチ的な手法を用いている感覚はある。『ノヴァ』は『アインシュタイン交点』よりは物語としてはすっきりとしていて、一層目はスペオペ、二層目は聖杯伝説、三層目は誕生と死のコントラストという感じで、三層の物語の間の調和を純粋に楽しめる。これは『エンパイア・スター』でも感じたことだけれども、基本的には冒険譚であるがゆえに、冒険譚の殻につつまれた本質的なコアの部分が見えにくい部分はある。西洋では割と普通に知られている聖杯伝説とタロットカードの文化は日本ではなじみが薄いため、タロットカードとアーサー王伝説の人物と物語の登場人物との対応なども考えないといけない、という意味でも前提知識がある程度あると楽しめる作品といえる。

もちろん表層的な物語が一番面白いため、何も考えないで読むのもまた一興。ピカレスク小説、復讐劇が混じりあり、二つの巨大な金持ちの勢力がノヴァで得られる超元素イリュリオンを求めて争う話でもある。超新星の中へとエネルギーの供給減となるイリュリオンを求めてリスクをとる船長ロークとそのクルーたち。彼らは一心同体となって、彼の顔を崩壊させた片手が義手のライバルのプリンス・レッドとその美しき妹ルビーとの争いに決着をつけ、覇権を握るため、ノヴァが起こりつつある星域へと向かうのだが…。

物語は個性的なクルーたちに支えられ、タロットの予言、そして聖杯伝説の予言と対応した形で物語が進行していく。ユニークなのは言語で、プレアデスの言語は日本語と語順が同じの英語。訳者の伊藤典夫氏の苦労がうかがえる訳語があてられており、敢えて方言を導入することでタロットの部分がトリック的に展開されていき、神秘的な雰囲気で予言を推測することに。聖杯、イリュリオン=力の源であるというアナロジーを考えてみても、ディレイニーはSFという準拠枠の中で新たな聖杯伝説を紡ぎだしたといっても過言ではない。

興味深いのは彼らが訪問する世界の世界観が、ダンテの神曲的にも感じられる。出てくる世界はどちらかというと、薄気味悪く、猥雑で、煉獄的でもある。そこでトリックスターとして活躍するのは愚者=マウスであって、マウスの存在こそが実はこの小説の性格を特徴づけている。彼にとってはいっさいの計画性を持ち合わせていないが全くの無計画というわけでもないこのノヴァでの旅について、行き当たりばったりでも彼自身の人格や徳によって、ロークの旅を間接的にサポートしていく。他のメンバーについても、それぞれタロットに特徴づけられたクルー(特に物語の書き手となるカティンの存在は重要で、作者=記憶者の視点として物語を完結させていく。そして彼はノヴァの衝撃に耐えて、運よく、ノヴァを見ても生還する人物でもあった。

文学的な解釈についてはプロの方々に任せるとはいえ、さまざまなシンボルが物語の中で錯綜し、ただのスペースオペラにとどまらない傑作であることはまごうことない。うまく説明するのは難しいのだが、言語を取り扱った『バベル―17』や物語の循環性にウェイトを置いた『エンパイア・スター』とは異なれど、どちらかというと『アインシュタイン交点』の寓話性に近いSF小説なのだ、と感じた。