舞い落ちる村



谷崎由依『舞い落ちる村』(文藝春秋)

谷崎由依、念願の第一作品集。第104回文學界新人賞受賞作「舞い落ちる村」と「冬待ち」の2編が収録されている。一気読みしてしまった。双方とも大学生、大学院生活のシーンで、ふと自分が大学院で勉強していた憂鬱な時代を思い出すような描写が多くて、ふとノスタルジックな気分に陥った。特に「冬待ち」については、図書館での描写が端整かつ繊細なためかある種、ボルヘス的な眩暈の感覚(映画「ベルリン、天使の街」の図書館のシーンを思い出す)にとらわれた。両方の短編を読み終えて、ふと自分が時間から切り離されてしまい、まるで双方の短編の中に取り込まれてしまった感じというのだろうか。そういう意味でも端正な文章からは想像できないような、心の根源を揺さぶる、サルトル的な嘔吐感を感じさせる。幻想的な装いの中にダークさが詰められている感じで、僕自身が箱庭宇宙に閉じ込められてしまったとしかいいようがない感覚。自分自身が脱出不可能な壁に閉じ込められてしまい、一観察者としてニューウェーブ的な内的神話世界をを鑑賞している自分の姿、すなわち入れ子構造を感じさせる作品といえばいいのだろうか。

舞い落ちる村」の世界観は恒川光太郎的でもあり、マッスン「旅人の憩い」的でもある。なんというか、心の奥底からなつかしさを喚起するような掻痒感を感じさせるニューウェーブ的な話で、時間の相対性というのをうまく取扱いながら、「ムラ」と外部の差を描いていく。ムラの様相は恒川光太郎の描く日本的な古風な場であり、近親婚によって支配された閉鎖的ムラ社会である。主人公のいち子は外の世界に出るものの、まるっきり違う差異を感じてしまう。その葛藤のシーンはまさに対立という軸で描いており、その描き方は主人公いち子とは異なる他者の相対性によって描かれている。言葉によって支配される場である「大学」、言葉など必要なく慣習に支配される「ムラ」との対比と相対的なずれなど、ずれの部分に視点を置くことにより、実に理知的な世界を描いている。東京にいるといまいちピンとこない話(たとえば、部落の話である)でもあるのだが、読んでいてそれは感じた面でもあることは付記しておく。この話はフレームがしっかりしている構造に支えられた作品なので、読み手の立場からは理解しやすいのではないかと感じる。

冬待ち」は大学院生をやったことがある人は何となく共感できる話もであると同時に、理論的な小説でもある。谷崎氏自身の生活も投影されており(特に修士論文で苦しんでいるシーンなど)、何となく微笑ましかったのはいうまでもない。ところが内容は、何度か再読が必要な感じの幻想小説。数学で例えると、シンプレックスの構築を行っている創成小説ともいえて、語り手の糸乃(名前にも注意したい)と彼女を取り巻く友人、恋人との関係が語られていく。それはまさにアリアドネの糸でもあり、運命の糸でもあり、糸乃を中心に紡がれていく。世界の中心はx(5つの点によってつながっている)によって記される糸乃であって、その関係性は夢のような浮揚感の中で慧子と失踪中の大学時代の友人恵子と椎野、そして恋人の香川を軸に紡がれていく。しかしながらxだと思っていた文字はχ(カイ)であったり、アレフであったりと、実は異なった解釈も可能であるという点に注意したい。だからこそ糸乃が空虚になり、ゴーレムという幻想がラストで創造される。空間的な広がりと内的な世界の広がりを感じさせる、理知的な短編だった。

山尾悠子さんの文章と世界観と比較してみたい一冊。これはお勧め。