いやしい鳥



藤野可織『いやしい鳥』(文藝春秋)

文藝春秋の<来るべき作家たち>のシリーズは部数が少ないせいか、書店にあまり置かれておらず、出たことを気付かないことも多く、やや困惑気味。実際、都内でも見ることは少なく、在庫切れになっていることが多い。新人作家ということである種の入手困難さはあれども、やはりこのような状況は谷崎さんの本も含めて、悲しいものがある。藤野さんの本はワインレッドの装丁で、過去買った円城塔さん、谷崎由依さんのものとは違った感じだ。とはいえ、たまたまこの色で装丁が行われているのは興味深い。というのは、読めばわかるように本書の短編のルーツとして潜在するのは日常に潜む狂気の「赤ワイン」の色だからだ。日常に潜む違和感を拡大し、誇張していくことにより、『嘔吐』のロカンタンが感じる我々誰しもが持つ不安感を描くことに成功している。読み終えて類似性を感じたのはミッシェル・フェイバー『アンダー・ザ・スキン』(角川書店)、キャロル エムシュウィラーの短編、そしてケリー・リンクジュディ・バドニッツの短編だ。しかしながら彼女らの作品と比べると、よりナチュラルな感覚で物語を紡いでしまったという印象がある。

文學界新人賞受賞作「いやしい鳥」は、カフカ的不条理感をホラー映画の手法を利用して、立て水に板というぐらい勢いのある荒々しい文体とナチュラルな感覚で綴っていくので、とにかく圧倒される。ダメな非常勤講師の男性(とはいえ、モテる)が遭遇する荒唐無稽な話とまとめてしまえばそれまでなのだが、効果的に擬音を使うことにより、B級ホラーにあるある種の「期待感」に満ちた小説でもある。つまり、開けたくないドアを開けて第一番目の犠牲者になる、というあのお約束の法則的なものなのだ。この短編の文体はホラー映画のプロット的な勢いを入れて、そのまま推し進めていく。鳥に襲われるシーンはある種のびっくりさせるような音楽が響いてくるような怖さがある。そしてこの話自体の終わり方はものすごく怖い。いろいろな解釈ができるかもしれないが、主人公の単なる妄想であるという解釈も可能であって、現実と妄想がいやな具合に混合している作品と言える。

「溶けない」も怖い話だ。幼少より連続する日常に潜む偏執的ともいえる狂気感が物語をフルにドライブしていく感覚。恐竜に襲われて食べられてしまったと感じている母親と、つねに食べられるかもしれないという偏執的な恐怖につきまどわれている主人公。妄想では語りつくせない怖さがこの短編にはあるが、やはりホラー映画の影響を受けているせいか、実に映像的な怖さのある短編である。それは妄想している恐竜の描写が我々の脳裏に浮かぶようなグロテスクさである。秀逸なのは、主人公のいた世界が果たしてもとの世界なのかもわからないという終わり方にある。それはある種の無限構造を持っていて、妄想の連鎖ともいうべき地獄でもある。それを裏付けるのは主人公が「数日不在」という点がキーになっていて、実は恐竜に飲み込まれた主人公はある種の再生を受けて、違った私になっていたのかもしれない、というSF的な妄想読みも可能なので、厭な話が読みたい人にお勧めしておく。

胡蝶蘭」は短いながらも、藤野さんのホラー好きな要素が凝縮された話だといえる。前の2つに比べると、キラー・コンドーム的な馬鹿さがある。意外と大半の殺人は、こういう不快なことを起こしてしまったがゆえに、行われたことであって、実は密室殺人の真の犯人なのかもしれないと妄想してしまったのはいうまでもない。美しい花には影があり、その影は実は弱いものを捕食するという流れがあり、その流れが一環として映画的な感覚で描かれているので、面白い。

全体的にまとめると、数学的構造をコアにもった世界観を構築した作品ではなく、その意味ではロジカルではない。しかしあえて完成されていないナチュラルな文章で荒々しく映像的につづったことで、「いやしい鳥」という傑作をものにした藤野可織の作品に今後も期待していきたい。