やんごとなき読者

アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水社)

翻訳者は『テヘランでロリータを読む』(白水社)の市川恵里さん。流れるように展開される物語に感動。もしイギリス帝国女王陛下が読書にハマったら…という展開で繰り広げられる、ベネットの読書論が凝縮された作品。これは実に見事な小説で、小説に耽読する女王陛下の姿を微笑ましく重ね合わせていくうちに、本好きの人たちは「自分たちが読書をしていく過程」を投影していくことになるだろう。女王自体が本を読み進めるうちに本を読むということに対して読書を通じて得ていく知見、さらに発展して自分が本を読むことによって得ていく「自己表現の手段としての文学」に目覚め、衝撃のラストを迎えることになる。

ベネットはなぜこのような小説を書いたのか、理由を考えてみた。新井潤美および訳者の解説によれば、イギリスの上級階級はスノッブという言葉に象徴されるように、スノッブな人間は嫌われる伝統がある。つまり「教養に対して無知である」ことが普通なのだ。その逆に、Sturbbonであることが逆に上級階級に求められている印象が僕にはある。新井によれば、ウッドハウスなどのユーモア小説がジャンルとして発達したのは、イギリスの貴族階級があくまでも「自分たちの土地を守る」人々であったことに由来するという。つまり領地運営には教養は余計な知識であって、無駄である。そういった意味では知識は無駄であって、実際的ではないということである。つまり、分業することによる最適性というのがあり、その中で余裕ができてきたときに、物語を紡ぐことで金を得るというジャンルが生まれてきたのは、自然な流れだと僕は感じる。

女王がこうして読書の旅を通じて知的になっていく過程が実に微笑ましい。それはまさに自分が読書の旅にはまっていったことにも通じており、ベネットはそういう過程を楽しく、素直に女王の視点から描いている。読書にも段階があり、当初は読書体力がなくて読めなかった本も、読書を通じて体力をつけていくうちに、読むことができる。これは運動でいうところの読書体力づくりであって、本を読まない人にとっては150ページの文庫本を読むのですら苦痛、という状況もあるだろう。しかし一度その楽しみに目覚めれば、読書すること、特に小説を耽読することは最大の麻薬であって、脳は常にそれを求めていくということ。ある段階に達すれば、実に不思議なもので言葉を使って、「素直に自分を表現したい」という形で文章化していく(それは小説であれ、なんであれ)。つまり僕たちはインク吸いとり紙のように物語を吸収し、それを自分のフィルターによって紡ぎ直し、付加価値をつけて、自己表現していく。読書に目覚めた女王と対比して、閣僚やお目付け役の人々は(ベネットの意味で)無教養であることを徹底して記述してユーモア風に仕上げているのが実におかしい。

そういった意味で本書はいい読書論の本となっていて、実に楽しく読むことができた。お勧め。