姿なきテロリスト



リチャード・フラナガン『姿なきテロリスト』(白水社)

読み終えてため息が出る。渡辺佐智江の訳も素晴らしいのも合わせて、オーストラリアの闇をえぐりだしつつ、マスコミを中心とする権力の作り上げた虚構性というシナリオに翻弄される運の悪いオーストラリアのストリッパーの女性の3日間の逃亡劇を描く。中東系のセクシーな男性と一夜限りの関係を結んだことが、プロのストリッパーとしてキャリアを積み、順調な人生を送っていた一人の女性の人生に災厄をもたらす。これはジャネット・ターナー=ホスピタル『暗号名サラマンダー』(文藝春秋)における、テロリストによって殺される人々の様相と似ている。フラナガンはこの小説の中で徹底して権力をもつもの、もたないものを書き分け、世界は不条理に満ちていることを指し示すことに成功している。

そういった意味でもこれほど思慮に富み、現代社会における権力の暴力性を暴き出した小説はない。すぐれた小説は読み手に警告を与え、世界と自分との位置を再確認させ、見方を変えることが多いのだが、この小説はフィクションという形態をとりつつも現代社会の闇をえぐりだす。つまり、世界に対する人々の無関心さをドールという名前の一人のストリッパーに代表させ、描いていく。ドールに起こったことは我々の社会においても十分起こり得ることである。ドールの場合は、警察という権力に対して不信感を抱いていたために、自分の権力を増大させたい一人のレポーターによって利用され、本来の彼女の姿からかい離した形で、マスコミによって作り上げられたドールの姿が怪物化していく。つまり彼女は「姿なきテロリスト」として逃亡をせざるを得なくなる。

逃亡の過程の中で彼女の生い立ちが明らかになるのだが、彼女は自分が関わらなかったことについていくつか後悔をしつつも、それを差し引いても人々は愚かで残酷であるということに気がついていく。この本のエッセンスは286ページに凝縮されているのだが、それを引用する:「初めて、自分の悲惨な運命を、宝くじに当たるような偶然のもの、そして、宝くじに当たるように否定できないものだと感じた。ただ一つ不可解なのは、日々周囲の至るところで人々が同じように苦しんでいたのに、迫りくる自分の運命の徴候がなぜ全く見えなかったかということだった。これが世界の本当の姿で、ほかのものはすべて幻想なのだと、なぜ気づかなかったのだろう。(中略)人々は、気にかけず、見ようとせず、考えまいとする。そしてドールはいま、自分を善人だと考えながらも、実際には人々となんら変わりはなかったのだとわかった。」

そういった意味では環境が変わるというのは単に局所的な社会規範やルールの変更であって、ある種の世界に対して折り合いをつける方法でしかないということに気がつくだろう。オーストラリアにおける人種偏見や社会に溶け込まないイスラムという集団に対するある種の恐怖、ヒューマンカーゴと呼ばれる形で財として輸入される人々。これはすべては売り買い(需給)の経済学原理で決定していると考えると、倫理というのはある種の幻想にすぎないのではないか?と感じる側面がある。つまりユニバーサリティという意味では、効率性とインセンティブというのが世界を支配していて、人道的であるということが何かをこの小説は考えるきっかけを与えてくれるだろう。それはボスニアセルビア人の武装勢力からイスラム教徒を守っていたNATOのオランダ駐留軍のベレッタに象徴される(そのエピソードが挿入される)。そして美しいと思われるものには宝くじのようなものであって、我々のような一般人にとっては理不尽でしかない(不確実性に支配されている)と考えた方がいいわけで、ある種権力というものに対してどう対処するか、ということを考えさせられる本である。つまり、世界を支配しているルールの本質について、語った本だといえる。

そういう意味では、現在たくさん目の当たりにする冤罪事件などを考えるにあたり、大変示唆に富んだ小説だった。読書会をしてみたいなー、と思った。