ベル・カント



アン・パチェット『ベル・カント』(早川書房)

1996年に起きたMRTAによるペルー日本大使館をベースにしたフィクション。ベルナルド・ベルトルッチ監督による映画化の予定もあるらしい。この本の存在を知ったのは、留学中のカナダ時代に友人のカナダ人がこのペーパーバックを持って読んでいたこと。彼女が「It's a good story」と言っていたのを思い出す。物語はテロリストによって占拠された「副大統領の私邸」で、人質とテロリストが対峙しながら、一人のオペラ歌手のベル・カント(美しい歌)を通じて、人種も言語も違う人間が極限的な空間の中で、一つに調和していく。そして待ち受けるのは、予定調和的ともいえるものすごいカタルシスが襲いかかる。言い換えれば、オペラ的な悲劇が待ち受けているという意味である種の用意はできているものの、途中で挿入される恋愛や調和が容赦なく壊されるのは、コルタサルの「南部高速道路」のラストのようだ。不満なのは、読み終えて「そりゃないだろう」というエピローグさえ除けば、面白く読める。設定は閉鎖的な空間という特異な状況をつかいつつ、オペラ歌手ロクサーヌ・コスとバベル的様相にある人々の言語をつなぐ、語学の天才のゲンを中心として、物語の位相が組み立てられていく。場の中心にある二人が親和力を生み出しつつ、人々はそれぞれの想いを抱きながら物語は優しいトーンで語られていく。

この物語と対称的なのは、ジャネット・ターナー・ホスピタル『暗号名サラマンダー』(文藝春秋)、リチャード・フラナガン『姿なきテロリスト』(白水社)である。二作品を比較することにより、ある種の特徴が見えてくると同時に、両書が示そうとしている優れたモノを捉えることができる。両者ともそういう意味ではラストが分かっているという意味で予定調和的ではあるものの、そのトーンはまったく対称的である。我々が直面するリスクというのものは、その生起分布すら考えることができない真の不確実なケースも存在しているということである。そんな状況であるということが、両方の本に関係していることであり、『暗号名サラマンダー』は徹底してテロがペストのようなものである、というメッセージを我々にもたらそうとしているのに対し、『ベル・カント』は徹底してヒューマンドラマにすることにより、悲劇的な様相をより明るいトーンで、読者の想像力に投げだす形で物語を描いていく。つまり言葉では語りえない何かで語ろうとすることこそが『ベル・カント』の目指したことなのかもしれない。

私たちの中には、カーネマンとトベルスキーが提唱したプロスペクト理論にあるようにもともと人は確実性を等価にするような事象を好むことが多い。アン・パチェットもジャネット・ターナー・ホスピタルも「事象的には起こる可能性の低い」状況を取り上げつつも、まったく異なる見方で「あり得ない事象」を解釈する。つまり予測可能になるためには、ある程度の「試行」が必要であり、観察によって生起分布がどのような形状をしているのかを知ることが、「真の不確実性」から逃れるすべではあるが、そのためには「大数の法則」で示されるように頻度が多くならなければ何ともわからないのだ。そういった意味では、「確率として起こる可能性が大変低い」ことが起こり、その中でもし何かコミュニケーションの手段が必要であるとすると、それは言語以外の何かなのかもしれない、ということをパチェットは物語の中でしめす。そういう意味では実にわかりやすい小説ではあり、実に気だるい甘い恋愛物語(なので、ベルナルド・ベルトルッチ監督が映画化するのは賛成)であるので、ちょっと中だるみはあるかもしれない。物語ではいくつかの人々の恋愛を軸に、それらの物語のハーモニーが形成されていく。ホソカワ氏とロクサーヌ、ゲンとカルメンの恋愛から、ラストのカタルシスまで音楽的な物語が綴られていく。

この物語、もっと読まれてよい気がするのだが、ウェブではあまり評判を聞かない。現在は絶版のようなので、古書店等で探して入手してみてほしい。フィクションという意味ではよくできている小説だと思うし、ある種の場ができていく過程というのを垣間見るのに面白い小説だと感じた。