人のセックスを笑うな



山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出文庫)

年下と年上女子との生々しい恋愛を描いたもの。本書を読むと、僕らは社会の「習慣」という枠組みにとらわれてしまっていて、それを打ち破るのはなかなか難しいことを再認識する。村上春樹『ノルウェーの森』でもそうだったけれども、男性が年下で、女性が年上という設定の恋愛モノというのは偉く生々しく感じる。この違和感は日本という国にいる僕らが、男女のカップルが男性が年上、女性が年下という何となくの暗黙の前提条件が僕らの意識の中に自然と埋め込まれてしまったいるのからかもしれない。

それは読み手である僕が中年という年代に到達しつつあることからも来ているのかもしれない。本書にあるような恋愛体験がなかった自分としては、そのできなかった経験をヴァーチャルな小説世界で体験させてもらえた本書は。僕自身非常に充足感に満ちた一冊だった。著者の文章は流れるようで、はっとさせられる描写や10代の恋する男子の切なさが淡々と描かれる。この小説で面白いのは二人の温度差にある。39歳の女子、というとある種経験値がものすごく高く(酸いも甘いも知っている)、自分の人生の中で19歳のオレの取り扱いについては十分熟知していて、コミットメントも薄い(そういう意味ではセフレに近い)。ところが逆に経験値不足の19歳のオレははまっていく。20歳差、というとなかなかに非現実的な年の差が、この小説にリアリティを与えているのは、物語の中で常時出てくるあまり構わないユリの容姿についてである。結婚している39歳の女子というのが、どのような雰囲気なのかは著者が書いているけど、実際のところ、この小説に出てくるような状況になっているのではないか?と思う部分もある。

そういう意味で、山崎ナオコーラは容赦なく、はじけそうで壊れそうな若さとしっとりとした中年の姿を対比させて、徹底的に描いていく。オレについては若さということだけを前面に出し、内面を中心に描いていくのに対し、ユリについては徹底して「肉体的な」部分を主体にしたリアリティとして描いていく。この差異が一人称的な眩暈感覚を与え、対応関係を「オレ」と読者に焦点を当てさせる。つまり、ユリという存在があくまでもリアルではあるが、トルソーのような射影でしかない感覚を与えていく。このことこそが、この小説の優れた面だと僕は感じたのだが、それは多分に、物語の焦点のフォーカスの仕方がユニークだからなのではないか?と思う。高橋源一郎の解説を読んで、あっ、ナオコにーラをつけたら、確かに中性化するよな?と思ったのだった。なんというか文章のセンスなんだろうなぁと思う。ちなみに文庫判の方が短編が一編収録されていてお得。