バレエ・メカニック



津原泰水『バレエ・メカニック』(ハヤカワ文庫JA)

2009年の日本人作家SFベスト決定。すぐれた小説を読んでいると、時を忘れることが多いけど、この小説は読み終えるのがもったないぐらいだった。幻想文学好きなら必読でしょう。あっという間に読み終わるのがもったなくて、幻想と現実が夢幻に変化していく感じに酔ってしまいました。

<想像力の文学>の最新刊(とはいえ、先月だけど)。短篇では氏の作品をいくつか読んでいたけど、多分長編は初めて。全部で3章からなる小説だが、読み終えてぞくりとした。高校生時代に好んで読んだ、川西蘭、初期の大原まり子ウィリアム・ギブスン飛浩隆などを混合して、より衒学的に味付けをしたSF小説だ。世界観の変容の方向性はややバラード的なのだが、それはあくまでも少女の中にある生命力と穢れのない大人の女性への変容を求めるためのエロスに満ちた第一章「バレエ・メカニック」に度肝を抜かれ、シスコンにまみれた女装趣味の脳外科医<龍神>の過去と未来を描く「貝殻と僧侶」、そしてグランド・フィナーレともいえるアバターたちが闊歩し、理沙殺し=世界の終わりとその収束を描いた「午前の幽霊」。途中に饒舌とも思える感性で完成された知識が挿入され、現実と夢、夢と現実、物語と現実の対応を完全に破壊し、多元的な解釈を可能とする。読んでいる感じはまさに、繊細で壊れてしまいそうな文章を扱っているような感覚で、油断していると物語世界に取り込まれてしまう。言い換えれば、理沙の夢見る脳世界へと取り込まれる感覚。子宮に回帰していくというのか、とにかくみつばちのマーヤ(ならぬゴーレム100乗のビーシスターズたちか?)が冒険していく感じ。

理沙の世界によって世界が変容する。それは純粋なものでしかない。ゴーストが跋扈し、東京は理沙の夢うつつによって、うつらの夢の中に取り込まれる。主人公のモダン造形作家木根原は都内での打ち合わせのあと、昏睡状態にある娘の理沙の世界の混沌に巻き込まれる。その渾沌のさまは木根原と理沙の想い出、馬車での移動、二人称による対応関係の意図的なずらしなどで、理沙の世界によって黄昏る都内の姿が幻想的に描かれていく。このあたりは、意識と現実の対応関係というのがいかに曖昧であって、もしかすると意識のほうが上回ることもあるという意味で、バラードの『夢幻会社』の受動版かなあと思う。第二章もまた、第3章を読むと「ああああ、そういうことか!」という仕掛けがなされている。登場人物に関してこうであるということをきちんと知った上で読まないと、符号によるずらしがあるので、追いかけるのが大変。第三章では完全に第二章と第一章でうまく構築された設定が収束していく形になっているため、きちんと読まないと追いつけない。読んでいるときにええと、彼女と彼と君など人称代名詞のズレを考えたりすることも多かったわけで。そういう意味では物語の構造という「スケルトン」がかっちりしている小説で、津原氏自体の衒学が見事に生かされて美しいデコレーションがなされたサイバーパンクSFだといえる。読んでいない人はぜひ読んでほしい。これはびっくりしますよ。