わらの犬



ジョン・グレイ『わらの犬』(みすず書房)

みすず書房の本書の紹介>http://www.msz.co.jp/book/detail/07490.html

SF作家のJ・G・バラードが帯を書いているのに興味を持ったため読んだが、ものすごく面白かった。ある種のセントラルドグマを持つ人たちは、この本を読んでショックを受けるべきだと僕は感じた。そして日本人に生まれてよかった、と正直に思う。値段以上の価値がある本だし、この本が日本語に訳されて読めることにあらためて感謝したい。グレイは現在の人間社会におけるキリスト教の思想を色濃く反映した進歩主義ヒューマニズム、科学万能主義に対する警鐘を鳴らす。本書は、そういう意味で人間の唯我論を戒め、科学が世の中を発展させるという幻想への風潮を批判している。科学とキリスト教の間にある緊張関係は、科学技術の発展に不可欠であったということをグレイは指摘する。このことをかいつまむと、ある種の真理が見えてくる。つまり、キリスト教を信じる者は善のものは最後の審判で救われる→科学は善である→だから科学の発展こそは救済への道であるという短絡ともいうべき、論理的な帰結が見えてくる。キリスト教がなければ科学の発展はありえなかったことは、西洋史をひも解いていくと明らかである。東洋的な多元主義というのは、分権主義的な平等なシステムであり、競争というよりもお互いのよいところを見極めて共存するシステムであるが、キリスト教イスラム教の中央集権システムでは競争を中心としたヒエラルキーシステムであり、進歩という概念が生まれるのはその形成から必然であった、と考えることができる。その意味で行き過ぎた人道主義進歩主義こそが人間の思い上がりであり、科学技術に絶対的な信用をおいてはならないとする。本書の主張は極めて明快で「唯我論を捨て、科学技術に代表される進歩主義に盲信せず、「人間」という種として、自然と調和して生きること」を説く。このことは、6章の「ありのまま」での「人生の目的は、ただ見ることだけだと考えたらいいのではないか。」という言葉に集約される。

グレイが本書で指摘する科学と宗教の在り方について考えると、J・G・バラードやS・レム(本書では『技術大全』から引用されたある装置の話が出てくる)らはSFという準拠枠の中で、進歩した科学技術における人間の在り方を描き、進歩主義に対する批判や考察を行ったともいえる。その点について特にバラードは進歩主義に対して真摯な批評者として、進歩主義によってもたらされた倦怠と平常という均衡を打ち破るのは人間の中にある生物としての獣性しかない(たとえば『夢幻会社』(創元SF文庫)や『楽園への疾走』(創元SF文庫)、グレイの本でも取り上げられている『コカイン・ナイト』や『スーパーカンヌ』(新潮社)などを読むといい)ということを明らかにしている。バラードはシチュエーションは変えながらも、進歩によって発達したテクノロジーや社会システムに対して常に鋭い理性から、批判を行っていたということを感じるだろう。つまり残されるのは「自然への回帰」であり、一体化である。その意味では、ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』(新潮文庫)もある種のシンパシーを感じるのは、西洋とアフリカという世界の狭間で結局残るのは「人間という種として生きること」なのかもしれない。

つまり西洋を中心とする学問体系の裏にはご存じのように、セントラルドグマとしての絶対的な「善」があり、その善を達成するのは科学技術であるという信念こそが、人間を思いあがらせていると考える。特に経済学を学ぶ自分にはある種の信念がある。たとえば、よい技術が普及することはよいことというある種のコンセンサスがあるが、みんなが選んだからといってよい技術であるとは限らないこともある。しかしそれはもしかすると人間以外の種にはものすごくよい技術なのかもしれないと考えると、増えすぎた人間にとっては当然の帰結なのかもしれない。たとえば大量殺戮技術は増えすぎてしまった人間という種の数をコントロールするためには、「ガイア」にとっては最適なものかもしれない。そしてそういう技術は極めて安価であることに注意したい。たとえばルアンダの虐殺は、水資源の奪い合いだったとグレイは指摘するが、実際のところはそうだったのかもしれない。増えすぎた人口の調整が戦争や虐殺であるというグレイの指摘は、その通りだろう。そして今の世界は安定期に入り、人口は増大し、人類はたくさんの資源を消費しているという現実を考えると、本書をひも解く意味はあるだろう。本書はさまざまな視点からもっと議論されてよい論題をあげており、実に面白い。鋭い読者ならわかるように、本書のメッセージは極めて単純なれど「わらの犬」である人類はもっと謙虚に自分の本質を見直すべきであることを感じさせる一冊。