古本買いまくり漫遊記

北原尚彦『古本買いまくり漫遊記』(本の雑誌社

古今東西、古書好きさんたちは一定数存在する。淘汰・絶滅することなく、しぶとくそのDNAを残し、世代ごとに確実に「古本ものDNA」は継承されていく。ここ数年ほど、一箱古本市や各種イベントにより、そのDNAは何らかの形で引き継がれ、次世代へと生き残る可能性は高くなった。ではどのようにして、古本者は生き延びているのだろうか?宮沢賢治はかの有名な詩にて、古本者の生態を以下のように描写する:

「雨にもまけず、風にもまけず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち(注1)、慾はなく、いつも静かに笑っている(注2)。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ(注3)、
あらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし分かりそして忘れず(中略)、東に病気の古書者がいれば行って看病してやり、西に疲れた古本者がいれば行ってその本の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい(中略)」

古書好きの実体をこれだけ明確に描写している詩はないだろう。まず(注1)では、古本者はレアな古書をもとめて全国行脚できるぐらいの体力がなければならない。それは雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体をもつように日々精進し、古本のことを考え、脳内麻薬で補完する。そう、「血風」のあの快感はどんなものにも変えられない究極の瞬間である(ディキンスン『生ける屍』200円キター!みたいな)(注2)。欲はただし、古書に関してはmaxである。宮沢はここで、「そのほかのことには欲はない。でもレアな古書を見つけて独りでほくそ笑んでいる]シーンを的確に「いつも静かに(古書を眺めて)笑っている」という言葉に託したのである。(注3)にあるように、これぐらい質素な生活をしているのは、レアな古書を買うための資金繰りをしているからであり、同時に古書店を回るための精進をしているという状況でもある。さてメインのパートである。ここからは、古本者の恐ろしさが詩よりにじみ出てくる。まず東の病人の古書者の看病は、ここで借しをつくり「古書本位制度と呼ばれる「本が貨幣媒体として通用する世界にて」よい本を手に入れるための布石作りをしているともいえる。西はいうまでもない。強奪である。南は死にそうな古本者の家に行き、恫喝する(そして死ぬ前にレアな本を抜く「セドリ」である)、北は古書で紛争が勃発したときに「あきらめろ、そこにあるのはくず本だ。おれがすでに(中略)」という詩だったのである。#宮澤賢治先生すみません。

とまあ、古書についての欲というのは資本主義以上に魑魅魍魎とした世界なのだが(笑)、真の古本ものとはたぶん僕が想像するに、「古本こそが我が一生」といって、「古本はちょっと…」「私と古本、どっちが大事?」という修羅場をくぐりぬけられる人なんだと思う。このように古書好きの生物学的な遺伝子は絶命する可能性があるのだが、古書好きは社会環境によって生まれることが多いため(自分もたぶん、この系統)古書好きDNAは引き継がれていくことが観測される。前ふりが長くなったが、本書はそんなディープコアな世界で本を買うシャーロッキアンで、作家の北原尚彦氏が本屋めぐりをしたときのエッセイである。すごい!と思ったのは、海外まで本を買いに行くその行動力ぶり。氏には別に変な本を紹介している一連のエッセイがあるので、そちらを別に参照してもらいたいのだが、とにかくすごい。書かれていることは古書好きな人なら納得(たとえばゲン担ぎで、無理して本を買うとか)の描写も多く、げらげらわらいながら、そして氏のエッセイを読んで「まだおれは彼岸(あちら)の国に行っていない」と思えるだけでもよかったのだと感じる。本書と同様な楽しいエッセイにあなふるがあるのだけれども、ジャンルの異なる人たち(北原氏とは本がちょっとかぶるので、当然エッセイの中で「ええええ”あの本を…」と個人的に悔しい気分になるのは秘密である)の本探索の話を読むのは楽しくてよい。

古書好き同士でツアーに行くのは、ある種のサーチからの利益(ジャンルに詳しい人がいると、探索能力が拡大する)とサーチからのコスト(ほしい本を抜かれる)の期待余剰の大きさによるんだなーと思ったり。もちろん全体には「ほしい本がその店にある確率」などの条件がつく。ところが過去のあたり古書スポットでまた当たりを引くというわけではなく、古書を持っていた人の処分したタイミング、それと古書店の生存確率なども加わり、一筋縄ではいかないというのがランダム性を加えているところがスリリングで面白いのかもしれない。…というわけで、今日も定点観測をしつつ、本の探索を楽しんでいる次第。