セカイ系とは何か

前島賢セカイ系とは何か』(ソフトバンク新書)読了。

社会を取り巻くゲームのルールが変化してしまった今だから「セカイ系」なのかもしれない、と読み終えてふと思う。大変刺激になる新書でした。ここのところメカニズムデザイン関連の文献を読みあさっていて、経済とサブカルチャーについての対応関係に注目すると面白いと思っていた。偶然この本を読み始めて、なんとなく漠然と感じていたことがあったのでそれをまとめてみた。セカイ系の定義が揺らぐのも、ある種わからないでもない。セカイ系をめぐる思想界の流れ(東氏や宇野氏らの話とか)、著者自身の考察も詳細に記述されており、大変勉強になった。

セカイ系」というキーワードをもとに、バブル期以後のアニメ・小説などを読み解く試みの書。特にポスト・エヴァンゲリオン以後の流れが良くまとめられている。小説やアニメなど、サブカルチャーと呼ばれるジャンルは社会世相を映し出す鏡だと本書を読んでいて痛感した。バブル期以後の日本社会の閉塞感の深化=セカイ系の作品の台頭というのは割と外れてはいない。その意味でも日本の閉塞感が生み出したのがセカイ系小説であるのかもしれない、と感じる。「社会システムの描写の排除」「わたしとあなたの関係」が特徴となる作品である。代表作品として前島は「ほしのこえ」「イリアの夏」などを挙げる。僕は哲学畑・批評畑ではないので、経済屋として思ったことを書くので、間違えがある場合はご寛恕願いたい(ご教示いただけると幸い)。

実社会との対応関係を考えると、バブル期以後の世界とセカイ系の登場が見事に合致する。 様々な事象を捨象し、小説と実社会との設定を考えるとセカイ系小説が生まれた理由もなんとなくよくわかる。戦後のグランドデザインが終了し、高度成長を達成した日本。「じゃあ復興を果たし、先進国入りしたけど、そのあとは?」と考えようとしているうちに、バブルが崩壊し、失われた10年になり、サブプライムローン金融危機で世界経済が悪化する。日本全体もまた、長らくの景気停滞で活力もない。明確とした一国経済、世界経済のグランドデザイン(何を指標として、何を目的とするのか)もなくなり、一般市民の僕らは「これ、というビジョンもなく、限定された世界のなかで、日々のルーチンをこなす」存在になりつつあるのかもしれない。ヒーローが不在の世界の中で、ヒューイスティックな意思決定をし、日常を生きている。しかしながら、火山が噴火したり、テロが起きたり、大量殺人が起こったり、「ものすごく低い確率で」自分が巻き込まれてもおかしくはない「不確実」が時折顔を出す世界。それよりも「いつ仕事・クビになってもおかしくはない」日常こそが、もしかすると世界の終わりなのかもしれない。だからこそ、二人の関係性から中間項をぶっとばして、世界に直結する小説・アニメなどが生まれたのかもしれないと感じる。定義域から値域への「対応関係」が見えにくい部分はあれ、セカイ系という言葉が生まれた当初は、作者の目というフィルターによる現実から小説世界への対応関係が具体的ではなかったという部分はあるだろう。この対応関係を具体的に見てみたい。

高度経済成長期から経済停滞、そして失われた10年へと移行していく社会状況。日本社会は経済拡大への軌道に乗ったと思ったら、バブルがはじけ縮小に向かう状況にあった。経済の様相は一般大衆にとっては、「天災」のようなもの。だからこそ社会に対する自分の対応が、外から内へと縮小均衡に向かっていったと考えられる。だからこそ、作品世界に出てくる主人公とヒロインの関係性に主眼が置かれるものの、結局描写されないシステムや日常という制約条件のもと、主人公たちは予定調和にならない運命にありながらもなんとかベストを尽くそうとする。このあたりは、限定された合理性のもとで、「自分と限定された個」の関係に収束するのは自然だと感じる。世界は変わるものかもしれない、しかし「自分の力では何ともできない、しょうがない」という点を強調している。このことは日本社会が成熟化し、模倣から独自進化し、小説の表現方法が変化したともいえる。社会システムの在り方、組織での有りようなどが描かれず、読者は最低限の知識の中で世界を想像しながら、主人公たちに世界を託す。でも漠然と描かれた組織や制度は自分一人の力あるいはヒロインの力では変更することができず、変化するのは二人の関係のみ。人間界のシステムはそのまま継続し、ルールは変更することはできても、自分たちが決定することはない。その意味では「確実ではない何か(世界とキミ)」と「確実である自意識」の間にある関係性を描こうとしたのが、セカイ系なのかもしれないとふと思った。

言い換えれば、セカイ系は過去の眉村卓小松左京作品のように、システムの在り方やそのシステムの破たんによる失敗などを小説化して、明確なヴィジョンを与えた小説ではない。前島賢氏は「世界設定がある」小説と呼んでいるが、戦後の経済成長計画に対応して、デザイナーのグランドデザインの視点が過去の小説には要請された。ところが様々なものが達成し、むしろ縮小均衡に向かう中で必然的に生まれてきたのが「セカイ系」小説なのではないかと僕は感じる。グランドデザイナーなき世界の中で、ぼくらがデザインできるのは(不確実性はあれど)僕ら自身しかないという事実のみを知った上で、どうしようもない状況をどう受け入れるのかのショックアブソーバーなのかもしれない。時代別の小説(たとえば1960年代SF)と論じればもっと面白いことがいえるのではないかと、本書を読んでいて思った。