ネット・バカ

ニコラス・G・カー『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』(青土社

インターネットや携帯機器を使い始めて、情報探索スキルを高めた反面、脳の集中力を失ってしまったのではないか、ということをメディア論や神経科学の視点から分析した本。ここ数年、ネットがないと生きて行けない自分(脳がそれを欲している)がいるのに気が付き、愕然とした。もともと周囲にパソコンがある環境だったこともあり、ネットをいじるというのは割と自然な感覚だった気がする。ところが、様々に偏在する機能を持つ携帯機器の登場でますますネットから離れる徐協が難しくなった自分を感じる。考え事をしていても、局所的に連続な時間の使い方で、その時間帯にはアウトプットを出している。しかしながら大局的にみると不連続な考え方しておらず、集中しているようには見えない。右方極限と左方極限が一致しない感覚というのだろうか。この感覚が日々の生活において、決して離れることがなくなってしまった。

本を読んで考えるという行為は実はものすごく集中力がいる。実際数学書を読んでいるときは、極力ものをシャットアウトしないと思考が途切れてしまうのでパソコンを切って書を読むことが多い。ところがパソコンをつけていると、なんとなく「ながら」勉強になり、覚えておかなければならない定義や証明の道筋などを忘れていることも多く、困ったことになる。この脳をチョップされる感覚を感じるようになったのは、ここ数年である。以前に比べると集中力が落ちているというのは明確で、これがニコラス・G・カーの言っている脳の発達の方向性が変化している、ということだというのがよくわかる。つまりグーグルなどの検索エンジンの発展により、われわれは情報を暗記することなく、膨大な情報のアーカイヴからキーワード検索で原理的に抽出することができるようになったと考える。その結果、データを効率よく抽出し、それを加工する能力がネット社会での重要なスキルになったといえる。これにより、言葉も音楽も映像もリシャッフルされ、融合していくことになる。そこから生まれるものもまた、オリジナルとして認められ、人々にコピーされ、消費されていく。その意味ではインターネットはある種の公共財的な様相をもつとともに、違った方向性のスキルを発展させるツールであると考えるのは、現状を見る限りは正しいことだと思う。サイバーパンクなどのSFでのヴィジョンはあながち間違えていなく、この方向で脳とジャックインが続いていけば、情報探索のスキルと利用スキルは間違えなく上がっていく。その代り、不必要になったスキルは利用しなくなるため、退化していく、というのは自然な感覚である。

その一方で、個々人に要求されるものはなんだろうと考えた。それはやはり、膨大な情報空間の中で自分の使いたい情報を確実に使えるために必要な知識と、専門に裏打ちされたコアなスキルだと思う。調べる素材がわかっていなければ、ネットはただのひまつぶしのツールにしかならない(このあたりの話は、中川淳一郎氏が書いているけど)。インターネットの登場によりスキルの発達が別方向に向かっているという感覚は特に30代の僕らにはあるかもしれない。ソリッド・エンティティとしての脳は、孤立した空間の中で混沌のごとくに思考に集中する。その集中力が失われ、情報探索能力を中心とした別のスキルの行く果てに生み出される社会はどのようなものか、まったく想像がつかない。今でも膨大な情報のフローがインターネット上を飛び交い、そして膨大なストックが日時蓄積されている。一昔前までは、情報には価値があったのだが、今ではその価値は激変し、ガラクタの中から自分にとって必要な情報を手に入れるスキルこそが重要になる。そのスキルを手に入れるためには、やはり専門性あるいは自分軸のようなものがなければ、決して身につかないのではないかと感じる。本書はそのあたりの事情をメディア論や神経生理学などを、衒学的に縦横無尽に語った知的好奇心にあふれた本である。