殺す

J・G・バラード『殺す』(東京創元社

閑静なイギリスの高級住宅街で突如起きた無差別殺人。32人の大人が殺され、13人の子供が行方不明になるというショッキングな題材を取り扱ったバラード後期の中編。当時出たときに購入していて、しばらく本の行方がわからなかったのだが、ようやく今回発見したので読むことができた。当時(12年前)読んでいても、たぶん「ああ、なんか嫌な話だな、オウム真理教とかそういうのを意識したもの?」で済ましていただろう。しかし今現在読むと、バラードの執着していた「体制からの脱出とメカニズムの再構築」というテーマがなんとなく垣間見れるような気がする。この作品もまた、高級住宅街に住むリッチな家計の子供たちのある種の、システム構築の物語」だからだ。

大人たちによる子供たちの人生設計のグランドデザインが最適か否かは、微妙な問題をはらむ。自由意思を尊重するとしても、親の意思・コミュニティの意思というのは制約条件とみなされる。僕たちは教育を受けながら、「制約条件」のもとで「意思」というのを高めていく。実は自分の人生のデザインというのは、環境によって大きく依存しており、その依存というのは避けがたいものである。だからこそバラードの解決手段は環境に依存しながら、その環境をコントロールするための力を手に入れるということに主眼があてられる。この力による支配の解除あるいはコントロールの主題はバラードが追追究したテーマであり、、『楽園への疾走』『夢幻会社』『奇跡の大河』『ハイ・ライズ』『コンクリート・アイランド』あたりで見ることができる。今回はまさに「リセット」による、ある種の体制打破による子供たちの制度設計の物語ともいえる。順応せずに、自分たちが立ち上がり、秩序を破壊する。純粋な力としての彼らのみずみずしい力を、まるで爆竹を各所で鳴らしたように淡々と第三者のレポートという形で描くあたりに、バラードのすごさを感じる。

バラードと同様のアプローチだが、マイルドなものとして至道流星羽月莉音の帝国』(ガガガ文庫)がある。こちらは仲良しの高校生が主人公の羽月莉音を中心に革命部をつくり(半ば強引にだが)、日本国からの独立を目指すために会社を設立して、そのための資金を得るという経済小説なのだが、体制打破という点でのアプローチでは両者とも手段こそは異なるが、同じである。偶然同時期に読み始めた本なのだが、「コミュニティによる欲求の充足」という点では実に興味深い展開をしている。また逆に体制側に取り込まれてしまう立場には、眉村卓がいる。彼の場合、巨大な官僚組織の中で順応する立場をとることにより、それが自らの利得に影響するという意味でも「既存の体制になんとか迎合する。迎合できない場合は、結局排除される」という(もちろん例外もあるが)「すでに力をコントロールされてしまった大人」を描いている眉村とバラードはある種の対比が見られる(ただし、『幻影の構成』あたりは割とバラードに近い気がしたが)。

ユートピアというのは、システムデザイナーから見たときにユートピアであって、それ以外の人にとっては「ディストピア」にしか過ぎない。効率性の観点から見れば「ひとりにリソースを集中させる」こともまた、ユートピアになりうる可能性がある。パレートの意味で(他人の経済状況を変えることなく、ある人の状況を良くすることができるという意味で)、ユートピアのデザインは情報の非対称性が存在する限りには、微妙な問題となる。デザイナーの手による、ディストピアを認識したときに、僕らが何をおこすのか、そのヒントがバラードの作品にある。つまりこのデザイナーの視点(グランドデザインではないが、コミュニティのデザイナーとしてのバラード)は、ミクロ的に見て優れているからだと思う。