スロー・リバー



ニコラ・グリフィス『スロー・リバー』(ハヤカワ文庫SF)


ネビュラ賞を受賞したということで、何となく読み始めた本。物語はスローペースで、ややかったるいのだがラスト付近であっと驚く方向に収束するので、気が抜けない本ではあった。そういった意味では、読むのにえらく時間がかかる本だった。社会状況を取り巻く設定はものすごく魅力的で面白く、物語の構成は考え抜かれて作られている、という印象を受けた。その分、物語のスピード感は殺されてしまっているのが惜しいが、構成を好む人はきっとはまるはず。SFというよりも、現代社会(特にイギリスの様相)を反映した小説といえ、持つものと持たざる者の対比は現代社会の二層化の状況を反映しているので、示唆的である。一般読者にはやや受け入れられない感の小説で、ネビュラ賞(SFWAに所属の作家、編集者、批評家などの、SFのプロフェッショナルが選出する賞)を受賞したのは理解できる。小谷真理の解説を読むと、やっぱりフェミニズムSFだったわけで、人生をリセットし、一個人として生きようとする「奈落からの出発」という点において面白さを感じるられるのではないか、と思う。

主人公ローラは何一つ不自由しない世界的な独占企業の大富豪の末娘として生まれたが、ある日彼女は尊厳を凌辱されるような誘拐をされてしまう。何故か家族の助けを得られないまま、彼女は運よく逃げ出すことに成功する。そして彼女は自分が大富豪の娘であるという矜持を破壊され、別の個人になるために他人のPIDAを、彼女を助けてくれたハッカーのスパナーから入手。新たな人生を歩んでいる、という話と彼女の生い立ちがオムニバスに進行して、過去と未来、ローラの誘拐の謎、ローラの一族に秘められた忌まわしき過去が明らかにされていく。

市場占有率がキーとなるSFは『ジェニファー・ガバメント』以来で新鮮。そこに一族のスキャンダルと裏金づくりが絡んでくるので、実は不要と思えたローラのだらだらした階層部分がのちにかっちりとローラの不条理な誘拐の謎と絡み、パズルピースとして構成されているので、よくできていると感じる。本書の最大の魅力は下層民が働くグロテスクなロンドンの下水処理場の描写である。リサイクルシステムを採用し、その管理はまさにローテクとハイテクが入り乱れた世界で、その中でローラは苦闘していく。基本的には独占企業が世界市場を牛耳り、その市場占有率をキープするために悪いことをする、みたいな話になっている。このあたりの設定はまさにディストピア風味で、堕ちてしまった主人公が現実を直視するという意味で、うまく対比させている点で「強い女性を描く」ことに成功しているといえる。

という意味ではSFという準拠枠で書かれた成長物語ともいえるのだが、本書の魅力は主に近未来のイギリスの階層化にあるといえる。この点については異常にリアルなエコシステムの技術描写や現場で奮闘する人々の姿などがこの物語では印象的で、この部分だけでも十分おなかがいっぱいになることは請け合い。人間描写の点では不満は残るものの、設定はしっかりつくってあるので、読み進めることができた、というのが正直な感想ではある。つまり社会構造を描くという点では成功したものの、人間描写では微妙という点で読者の支持は得られにくい小説かもしれない。

フェミニズムSFを考えたい人は必読。特に探して読む本ではないかな。