ハーモニー

伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房)

#長文。思考の整理のため、勢いで描いております。

社会科学を専攻する、あるいはしていた人は、きっと伊藤計劃が『ハーモニー』で描こうとしたユートピア(人によってはディストピアと読み替えてもよいだろう)を夢見たはずだ。世界は究極的に個別の意志という時代遅れのデバイスは不要となり、結合された集合知性による巨大な社会システムに収束するという方向性を伊藤計劃は本書で悪夢的に打ち出している。すなわち人々が真の不確実性に遭遇せずに意志決定ができる世界、そしてそれは個性を失い、アリやミツバチのように役割分担が割り振られる世界ともいいかえることができる。その未来像は争いもなく、世界が調和した世界でもあるが、そこには自由意志もなく、Watchmeと呼ばれる管理システムによって支配される。つまり合理性による社会システムの到達点とは、伊藤計劃が『ハーモニー』でグロテスクに描いた社会である。本書は『虐殺器官』(早川書房)の世界を継承しており、<ザ・メイルストロム>と呼ばれる災厄の後に構築された世界の姿を描く。ネタとしては『虐殺器官』の系ではあるけれども、落とし方が面白かった(とはいえ、ラスト近くのあれは謎ですが)。

伊藤計劃の描く世界、それはまさにランド研究所が推し進めようとした世界の具現化であり、アーサー・C・クラーク幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫SF)でのオーヴァーロードによる人類の最終形態とアシモフファウンデーションシリーズに出てくる社会心理学者ハリ・セリダンの理論など、過去SF小説においてよりよい社会システムとは何かを描くことに心血を注いできた。西洋においては古典となっている各種作品、トマス・モア、サミュエル・バトラー、アラン・シリトー、オールダス・ハックスレーなど、各思想家たちが「来るべき世界」について想像力を駆使して描いてきた系譜もある。

人間行動を分析する社会科学、ことさら経済学においては効率性の指標と最適化による「調和のとれた」メカニズムを設計することに心血を注いできた、といえる。それは昨今において、経済学でも「メカニズム・デザイン」という方向性で合理性と各種仮定を用いた形で構築されてきたものだが、良いシステム設計を考えることは永遠の課題となっている。『ハーモニー』の世界はWatchmeによって管理され、人々には自由意志を認められているものの、管理されている世界であるというのは変わりはない。そんな中で、ある少女の自殺が世界システムにもたらした影響を伊藤計劃はいくつかの進行中の経済学の理論や社会システム論を援用して構築していく。

日々リスクや不確実性にさらされている我々は、今すぐ手に入れられるものを選好する傾向がある。この「忍耐のなさ」を測る指標としては主観的な現在価値割引といい、動学分析を行う際には大きな決定要因となっており、指数的割引(簡単な計算で確認できるが、変化率は一定になる)割引を経済学では仮定してきたが、最近の研究においては双曲的割引(変化率は逓減する)ではないか?という意見も出てきて、その方向での研究も進行中である。伊藤計劃が示したヴィジョンはこの近視眼的な人間行動の選好が莫大な計算量に裏打ちされた選択とは実は多数の意志決定の競争を勝ち抜いたものであるとする。簡略化していうと、ある意志決定は脳というフィルター(ブラックボックス)を通じて、知悉して決定して、最終的には報酬という形(たとえば脳内麻薬がたくさん出ている状況)得られるプロセスであり、その判断基準は双曲線的であるとする。このあたりの考え方は小林泰三らとも相似するのだが、異なる点は伊藤計劃がグローバルなシステムの方に焦点を置いていることにもあるだろう。システムの淘汰が遺伝子の継承のような形で選択されたものであるとすれば、実は今のシステムとはESSであるのかもしれないし、今後破たんして別の均衡状態になるのかもしれない、と感じた部分はある。

そう考えてみると、伊藤計劃が『ハーモニー』で描こうとした世界は一つの問いかけでもある。つまりシステム設計さえうまくいくような困難の排除が科学技術の進歩によって、実はありえるのかもしれない?と感じる。本書はそういう意味でも、久々に脳内を刺激された小説であった。人によって好みは分かれる小説であれど、僕にはとても面白かった。