陋巷に在り 儒の巻

酒見賢一『陋巷に在り 儒の巻』(新潮文庫)

古代中国の孔子の弟子顔回を主人公とした小説。「古代中国において実はサイキックな呪術(儒)が、現実世界にも深くかかわっていた」という考察のもとに、孔子を取り巻く政治・社会を大胆な切り口で再構築するという小説。酒見賢一さんというと僕の中では『聖母の部隊』(ハルキ文庫)や『後宮小説』(新潮文庫)なんだけど、ちょうどこの長編が出ていたころは身辺がバタバタしていたので読む機会を逸してしまった。今回思い立って全巻購入し、眉村卓不定エスパーとともに読もうと決意した(ために、ほかの小説が読めないだろうと予測しているが、途中何かしらの軽い読み物は読む予定だ)。ただ酒見さんの本はウンチクや解釈も交えて、実に刺激的で本格的に『論語』や礼の世界について知りたくなるという知的好奇心に満ちた本でもある。表紙の諸星大二郎氏は当然この小説にぴったりで、氏の『孔子暗黒伝』の影響を受けたとあとがきにあったので、なんとなく納得。ある種酒見氏もこの小説の構想を温めていたのだなぁと感じた。

知らないことがたくさんあったけれども、まずは基本構造から見ていくことにしよう。主人公の顔回は儒を生業とする一族の強力な後継者として育ち、天命ともいうべき形で孔子の弟子になる。そのころ孔子は魯の国で徐々にその知名度を上げ、魯の国で政治に参画していた。ところがそんな中に孔子のことを快く思わない斉の大臣晏子が呪術を持って彼をなき者にしようとするが…。というのが第一巻目の流れ。偶然とはいえ、眉村卓の<不定エスパー>を読み進める過程で少し比較ができそうでよかったと感じている。本書では数人の重要人物が狂言回しをして物語を進行するタイプだが、眉村の場合はイシターの独白によって物語が進む。スタイルの違いはあるが、取り扱っている内容は「制度や組織、人間関係の狭間で、いかに身を処するか」という人々を描きつつ、酒見氏の小説ではそれに+αとして「天命によって動く人」を加えたことにある。僕にっては顔回は「自然」そのものの存在であって、実に興味深い形で物語が進行する。

両方の小説でもそうなのだが、基本的にウェルメイドな物語のフレームが自然と出来上がっている感じなのだ。つまり山場谷間はあれど、物語の土台にある「信念」が感じられるところが面白くしているのだと感じる。そういう意味では山之口洋氏の『天平冥所図絵』(文藝春秋)や、沢村凛『黄金の王白銀の王』(幻冬舎)(もう品切れですか!)に近いスタンスだと僕は感じる。つまり著者の「人間としてかくありたい」という理想が物語という形で主張されていて、その点に惹かれるのかもしれない。信義のため(長期的に見た場合にのちに良いと評価される)、犠牲にしなければならないものというのを描くことの大変さだと僕は思う。つまり意思決定のトレードオフの微妙なバランス(一石二鳥はない)は、最終的には主人公の生きざまに反映されるというのを描くのがうまい人たちなのではないかと思う。僕が感じるすぐれた作品とは二つあって、(1)物語世界の構築と構成のうつくしもの、(2)世界で役割を果たすために誠心誠意を込めて、世界を分析し、自分の役割を全うするかというものだと感じる。(1)ではSFやファンジーの壮大な世界観やアイディアに僕が惹かれる理由はそこにある。(2)は作家その人の思想や生き様、信念にかかわるものである、と思う。(1)については山尾悠子荒巻義雄などたくさんすぐれた書き手がいるのでいずれが語る機会もあるかもしれない。(2)については、こういう小説を書ける人は時代小説に多いと思うのだが、SFにおいては眉村卓が優れていると思う。そして酒見賢一である。本書では、実在した孔子孔子の弟子たちを中心に新たな考察を加えつつも、「礼」というのが何かを考えることができるようになっている。

今後2巻以降どのような展開になるのか、楽しみであります。…帯ほしいな…。