ミレニアム・ヘッドライン

ジョン・ケッセル『ミレニアム・ヘッドライン』(ハヤカワ文庫SF)

翻訳者の増田まもるさんご本人からお勧めされていた本。現代アメリカに潜む病理をペシミスティックに描いたグロテスクなSF長編。翻訳された1993年当初に購入していたのだけれども、その当時の自分では『ミレニアム・ヘッドライン』の面白さがわからなかったと思う。当時のアメリカに内包する問題点(キリスト教原理主義、オカルト、経済状況、宇宙人陰謀説)が絡み合って、1999年というミレニアム前のディストピアになったアメリカを描写していく。その意味では、ドライコ一族というコーポレーションギャングに支配された世界を描いたジャック・ウォマックの作品と比較してもよいだろう。そういう意味では、荒廃したアメリカを描いたディストピアSFとも読める。本書で出てくるHCRのヘッドライン(各章のタイトルは、主人公ジョージが属するニュース配信会社HCRの見出しになっている)の各章を読んでいると、1999年4月から2000年4月までに何が起こったのかがわかるようになっている。主人公ジョージ、その妻のルーシー、HCRにジョージを抜擢したジョージの親友リチャード、そしてキリスト教原理主義の指導者ギルレイの4人の物語を中心に(時折、彼ら以外の別人物たちのエピソードが挿入され、それらが実に興味深いものになっている。)進行し、あっと驚く物語の展開が見られる。その意味では、まるで「あらし」のような怒涛の1年間を描いている感じではある。もともとケーブルテレビのネットワークなどを通じたキリスト教の説法が行われているアメリカでは、このような過激な破滅願望を持つ原理主義者たちが跋扈する環境が整っていることから、「陰謀」や「噂」により実は世界は構成できるというある種の真理を描きたかったのではないかと感じた。

ケッセルの描いたアメリカ自体は遺伝子操作によるウィルスが蔓延し、経済は新通貨を発行してデノミしなければならないほどのインフレに苦しめられた絶望的な状況にあり、アメリカ人自身が終末自体を予感する「自己実現的」な状況にあった。そんな中HCRの敏腕記者であったジョージは人間もどきの存在たちがアメリカ各地で引き起こす事件をベースに、このことが異星人の侵略の証であることを確信するものの、運悪く心臓発作で倒れ、妻のルーシーと親友リチャードの手助けもあり、ある種のウィルス蘇生法により、死からの復活を果たす。その一方で、キリスト教原理主義のテレビ伝道師ギルレイは、イエス・キリストを司令官とする宇宙船<ニュー・エルサレム>が地球に着陸し、最後の審判が始まると説法する。これら謎めいた人間もどきの人々は、彼にとっては神の御使いだと考えられていた。果たして、ミレニアムは到来するのか?

読み終えた感想は、ある一定レベルの知識があれば楽しく読める(そうでなくても、嫌なアメリカ世界を描いたディストピアSFとして読める)。ケーブルテレビを通じたキリスト教伝道師によるキリスト教原理主義思想の広まりの問題をネタに、男性主権社会に対する批判を織り込み、政府によるコントロールを超えてインフレによって崩壊したアメリカ社会を描く。またさらにウィルスによりout of controlになった状況などを踏まえても、情報の奔流、ウィルスの奔流など、「拡大したことにより、コントロールができない」世界を見事に描くことに成功している。それは上巻や下巻にある、主人公たち以外の物語にある。まずは精神経済学の話。人は自分が消費するよりも多くの愛を得たいと感じる。つまりコストとベネフィットを勘案して、精神的な幸福の余剰を最大化するような行動をとる、とする。そしてその行為自体は、ある種のキャパシティの制約のもとで精神的な幸福の最大化(効用最大化)をする主体であって、決して利他的ではないということ。この原則はジョージやルーシー、リチャード、ギルレイたちにも当てはまり、本書内で一貫して利用されている。幸福の判断基準は自分と他人とではまったく異なるところに、余剰が応じるか、コストを被るかというのはある種の幻想的な部分があると考える。最後の最後にある種の理解があるものの、人は自分のことしか考えないというホモエコノミクス的な様相が面白い。それは妄想や色々なものに囚われていても、だ。

またしゃべることができないビンゴの魔術師の男の子と老夫人のエピソードは面白い。我々の社会は実は微妙なバランスによって成立しており、常に蓋然性によって支配されている。その原則が破られたときに、人は不快な気分になるということであり、人はありえないと思うことを常に「確率」(大半の場合は客観的確率や頻度)に収束させるのだが、ある種の制約にとらわれながら日常の選択をしていると考えると、奇跡は奇跡であるからよいのであって、主観的な確率をコントロールできるような世界観は他人の合意がなければ棄却されるべきだと感じる。ケッセルは情報のノイズ、誤った仮説から導かれるストーリー展開、メディアにより誇大に拡大し、ネットワーク的に拡大するノイズの怖さをミレニアム前という混沌の世界を利用して描くことに成功した。そういう意味では、1989年の様相をベースにした素晴らしいアメリカ風刺小説であると思う。ウェブなどの感想文も少ないのが残念だが、今だからこそ読まれてもよいタイプのディストピア小説だと思う。