フェアリイ・ランド



ポール・J・マコーリイ『フェアリイ・ランド』(ハヤカワ文庫SF)

文庫版は680ページの大作。本書はは三部構成になっていて、アリスを求めて悪夢のフェアリイ・ランドを駆け巡るあらしのような喧騒感漂う90年代を代表するSF作品。世界はナノテクと遺伝子工学によって支配されており、独自の色彩で彩られた世界観を作り出している。十分に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかないという感覚を与えてくれると同時に、ベースになる魔法物語や伝説がうまく埋め込まれているので、構成された世界環境を感覚的にとらえて読むと楽しく読むことができるだろう。世界の描写は、サイバーパンク的な世界観を共有しながら、ナノテクと遺伝子工学に支配された陰鬱な世界像を描いている。その意味ではニール・スティーブンスン『ダイヤモンド・エイジ』(ハヤカワ文庫SF)+チャールズ・ストロス『アッチェレランド』(早川書房)+ジョン・ケッセル『ミレニアムヘッドライン』(ハヤカワ文庫SF)な感じ。そういう意味ではストロスやスティーブンスンは影響を受けている気がする(主人公のアレックスの雰囲気とか、ヒロイン・ミレーナの造形とか)。ディックやほかの過去のファンタジーやSFをものすごくレスペクトしている小説で、ところどころ作品名や固有名詞などが出てくるので面白い。

また優れたSFとしての要素として挙げておいてよいのは、90年代の社会現象をうまく組み込んでいること。これは遺伝子汚染やチェルノブイリの問題(不幸なことに福島第一原発の問題も加わったが)などが小説のバックグラウンドにあることは、読んでいくうちにわかるだろう。社会現象的には移民の問題にクローズアップしていて、特に第三部ではアフリカからの難民たちのコミュニティ(これはイギリスなどでも多い)を扱っているのは面白い。これは単一民族の日本人だとなかなか理解できない部分があるが、アフリカとヨーロッパは地勢的なつながり、旧植民地のつながりもあり、ものすごい絆がある。そのあたりを第二部・第三部で感じさせてくれるシーンも多い。グローバル化しつつある社会の中で、イギリスやヨーロッパの世界が変容していく様を、ナノテクと遺伝子工学に汚染された世界に代表させているのが、生物学者的な社会の見方だと僕は感じた。この場合はドールという存在とフェイによる社会の変容であって、ある種の社会システムへの挑戦だといえる。その意味ではストロスもマコーリイの感覚を引き継いでいるように思える。

現実社会の問題、いろいろな小説やアイディアのハイブリットであり、そのハイブリットさがマコーリイの知性によって綺麗に凝縮されているともいえる。物語世界に没入できればさくさく読める。絢爛な専門用語と、淫靡な感じのドールやフェアリイらのセミ・ヒューマンたちの登場により、物語はシェークスピアの『あらし』的なドタバタ感が加わり、最後は攻殻機動隊的収束になり、興味深く読む。個人的には第二部が一番好き(麻薬と軍隊の擬人プログラムによって制約される元傭兵の妄想劇とミレーナ追跡の話がうまく絡み合う)で、このパートは伊藤計劃の『虐殺器官』(ハヤカワ文庫JA)とも通暁するものがある。物語の広がりは、ロンドンからヨーロッパへ移行し、登場人物が増えるにつれて徐々に不気味さを増す。第三部は伊藤計劃の小説『虐殺器官』的な感じになっていく。三部では妖精さんみたいなパウエル夫人が好き(彼女の世界の見方はユニーク。つまり超自然的存在で、酒見賢一の小説の登場人物みたい。あるいはアッチェレランドの猫みたいだ)。まとめると、個人レベルでの社会システムの変革デザイン(その意味では、ミレーナはメカニズムデザイナーだ)を取り扱いつつ、その社会の変容の在り方をうまくミクロ的に(血を介在して、ある種吸血鬼のアナロジーだけど)収束された小説だったといえよう。だから『ダイヤモンド・エイジ』と『アッチェレランド』とともに読んでおいて損はない小説だと思う。