さよならペンギン

大西科学『さよならペンギン』(ハヤカワ文庫JA)

#量子物理学が専門ではなく、わからない人間なので、そのあたりについての解釈はあくまでも「経済学の意思決定や数学的な面白さで読んでいる」ということをあらかじめ付記しておく。

タイトルに惹かれて読む。割とさくさく読めた。ネタは梶尾真治のアレ(あるいはハインラインのアレ、ポール・アンダースンのアレなど、例を挙げればたくさんある)に主観確率的観測の問題を絡めたもので、この部分は斬新。主人公の延長体ともいうべき、ポケモン(笑)の正体がユニーク。確かにこの設定はファンタジー小説にも転用可能なものであった。物語後半はポケモンの戦い(笑)というライトノベル的な小説。確率という身近な概念をおさらいしながら、同時に自分たちが「存在する」というのがある種ものすごいことであるということを感じさせることに成功している。コアとなる「確率」の概念こそが、物語の核心につながるあるネタと組み合わさり、なるほど!と思う。自分自身は物理学プロパーじゃないので、専門領域で勉強している確率の概念をコアにして、考えてみた。もともと主観確率(人間がその事象に対して起こりうる信念をベースに確率を計算する)と客観確率の間にある認識のズレがあり、結果としては同じになるものの、構築される確率論体系というのは異なる解釈になっているのは皆さんの周知の通り。この主観確率客観確率のズレによって、実はアンカーとなっている主体の構築する世界観も変容するということだろう。

この小説はその「客観確率主観確率」の間にある我々が感じる違和感というのを見事に提示する。小さな町の塾講師の南部を主人公とし、人語をしゃべるペンギンと同居し、夜の街を散歩する。塾には彼に好意を寄せる女性がいるが、南部自身に隠された謎が、その好意を素直に受け取ることができないことにつながっている。南部は観測者という立場で世界を俯瞰しているが、ある日「別の観測者」を街中で見かけるあたりから、物語が急展開していく。意思決定によって選択される行為によって(これはある種、行動を脳内の確率固定器によって、不確実だった信念を2項選択(0か1)かに無意識に変換しているものととらえる。ところがその確定化は、限定的な情報構造のもと、ヒューイスティックなバイアスのルーティンが優先されることが多く、事後では不合理と思われる行為につながることが多い)、主観確率の確定化を行う。そこには必ず観測者の信念(解釈)が、いくつかの可能性(ある組み合わせであったり、個々の事象であったり)を一つに収束させるのが、観測者の役割だととらえる(これを一歩進めるとうえお久光紫色のクオリア』(電撃文庫)に展開する)。

環境の制約下での無限とも思える可能性のノードから一つを選択する(あるいは事象をその人が考えていると思える結果に収束させる)のは、思ったよりも難しいため、不合理な結果というのが出てくることが多い。ただ面白いのは、複数の観測者が存在するときに、なぜ世界認識が一応大局的には一致している(収束している)のかということである。このあたりは哲学的問答になるのであれだけれども、重要な点は「自分には他人のことがわからない」という情報の非対称性と情報量の格差(その意味で、非対称的である)にあるのではないかと思う。このことは後半のポケモン戦争で重要な問題情報量の大小というのが絶対的な力として働いてくる。情報量が多いということは、限定的な合理性を緩めるためのキーになっており、最適だと思える決定を出すカギになっている。そこである人物が「恐ろしい魔物」とびびるのは、理解できる気がする。つまり、情報量の多さというのは(データマイニングを瞬時にできるような知性体であればという条件付きで)それだけでも圧倒することであるのは、なんとなく現実世界を見ていてもわかることだろうか。

物語自体はライトだが、コペンハーゲン解釈とか主観確率客観確率に関することに興味のある人は読んでおいて損はない一冊。