科学と神秘の間



菊池誠『科学と神秘の間』(筑摩書房

科学が客観的なものを取り扱うという基本定義から、巷にはびこる代替医療や超能力など、ニセ科学に対して、何がおかしいのかを論理的に解説したエッセイ。僕自身このような現状にはあまりにも無知だったこともあり、最近は岩波書店から出ている『科学哲学』などの本を読んだりしていた。科学の発展に伴い、無理だと思われていた(当時は夢・妄想と思われていたもの)ことも、技術やアイディアの発達により実現されるようになり、徐々に技術基盤として組み込まれていく。そのダイナミズムこそが科学と神秘の間を徐々に埋めていく過程なのだと思う。現在の社会を古代日本の人たちが見たらそれこそ、神の領域にいるのと同じよう、事実が解明され、それが当たり前のようになっていくことこそが重要なのだ。ところが時代は変わっても、人々は「あり得ないと思われる」ような事象に対しても、「いやその可能性はありうる」として一定の層の人たちが信奉するカルト的な分野、ニセ科学という分野が世の中に跋扈する。本書はそんなニセ科学の事例を交えながら、なぜ人々はそのような荒唐無稽な事象に納得してしまうのかを軽妙な筆で語っていく。

科学者としてのスタンスとは何か、それは頑固であること、客観的な事実を取り扱う学問であることであるとする。ところが面倒なことに、我々個々人は異なる経験・知識をもとにある事象を観測すると、客観的な判断ができなくなることが多い。それは奇跡と呼ばれる類のもので、人は自分に降臨したものすごい偶然を「奇跡」としてとらえ、それを信憑してしまうことが多々ある。本書はそのようなリアリティと客観的事実との間の乖離に何らかの折り合いをつけるためのヒントを与えてくれるものである。たぶんこれは、個々人の体験というのにどうしても我々は引っ張られてしまうことが多いだろうし、実際に人はそれほど合理的ではないという行動経済学における知見からも明らかなように、様々な要因によって経済学が解くところの「合理的個人」のモデルから乖離するような意思決定や判断を行ってしまうことが多い。それは僕らが持つ確率に対する漠然としたアンビバレントな感覚にあるのかもしれない。主観確率による「それが起こりうるであろう」という個々人の信念はそれぞれ異なるため、個々人がもちうるその事象への信念というのは当然異なる。そのため、その信念が起こりうるという確率を知ることができないからこそ、ズレが生じてしまうのかもしれない。

自然科学と異なり、社会科学の難しさは、この客観性にあるとぼくは感じている。実際経済学では不確実性が伴い、確率分布すら仮定できないような不確実性という概念すらある。その意味で、人々の間のタイププロファイルがまったく非対称的であり、わからないということから、どうしても客観的な指標を作るのが難しくなる。ある人にはパレート基準がよいだろうし、ある人には衡平性を重視する人たちなのかもしれない。その意味では人が利用でき、観測できる情報量というのが少ないことが、様々な誤解やストーリー(陰謀論など)を作り上げてきたのかもしれない。実際実験経済学においても、様々な実験がなされており、どのように協力関係が出来上がるのか、規範が作られていくのかなど、データをもとに自然科学のような実験により検証が始まっているのだが、現在は道半ばの状況であるといえる。だからこそ、特に自然科学以外の人たちはこの本を読んでおく価値はあると感じた。科学と神秘の間を知るための入門書としてお勧め。