不動カリンは一切動ぜず


森田季節『不動カリンは一切動ぜず』(ハヤカワ文庫JA

SF設定(感染すると遺伝子が改変されてしまうHRVが蔓延している世界)とオカルト(神との対話)が融合した百合小説。小説設定における各種のSF的設定が内世界および社会システムにうまく融合しており、神戸周辺(垂水〜六甲山)のコミュニティとの自然的な融合を描いていく。そのナチュラリティが、「神」という形で具現し、降臨する。小説の読みどころは、主人公の火輪と周囲を取り巻く人たちのコミュニケーションと心の交流を描くことにある。セックスがリスキーな行為となった世の中で、試験管での受精(クレイドルから生まれてきた子供を市役所からもらう制度もある)がもっとも安全な子孫の残し方の中、セックスをするためにはどうすればよいのかという疑問が生じてくる。この本では、自分のDNAを使った「腹子」を作ることで、自分の遺伝子プールに近い「将来の配偶者」を得るという解決法を提示している。この設定こそが秀逸で、物語の軸となるある人物の出生起源が「腹子」であることが、実に大きな意味を持ち、主人公の不動火輪(カリン)および、彼女の親友兎譚の性格形成に大きな意味を与える。子供たちは思念による会話が可能になっていて、ある種携帯が一段階発展したものに近い感覚がある。

このような設定のもと、本書は破滅SFの流れに沿いつつも、精神世界という新たなベクトルを導入することにより、個人と世界、個人と個人の間のコミュニケーションへの考察が行われている。「家族」というものが意味をなさなくなった世界で、どう人々が絆をつくるのか、そしてその絆には何かしらの「覚醒」が要求されるのかなど、著者独自のコミュニティ感がうまく反映されていて、実に面白い。徹底した幸福(効用)の最大化による、組織の分割と個の細分化(そのため、個を分解して多重人格となり、その多重人格が「それぞれの効用を最大化する」)による効用最大化のアイディアはユニーク(ただし、各人格がきちんと効用を最大化しつつも、多人格同士が「メイン」となる人格を尊重しなければ、一つの器の中で効用を最大化している「競争的な」多重人格になる恐れもある。その状況はスキゾ的で、個性の間での調整費用が高いものになっている(つまり、競争の過程)。その意味では効用を最大化している人格の使い分けというアイディアは、個人という概念をさらに分割していくという意味でもユニークである。

物語はカリンの親友である兎譚が失踪したことから、大きな展開を見せていく。前半部のストーリー展開は社会システムとカリンの心の動き、そして「情報過多なのは無駄。単純に物事を考える」という原始的なコミュニティ回帰を唱える無欲会に属する情報過多統合症の若き暗殺者の言葉の葛藤、犯罪によってある種の国家奉仕を義務づけられている「強制善人」の存在など、実に面白い。個人主義とコミュニティ主義、それを調整し、統治する国家という思想の三者の変容という点においても、新たな視点を提示することに成功し、読者に新社会における個の在り方を問いかけている。政府による監視社会という暗いディストピアの設定が生かされている中で、後半は不動カリンの内的世界の話になるので、設定が少し利用されなくなるのはもったいない。主人公たちのネーミングのつけ方も面白いし、ある種ネットワーク社会の個の在り方も暗示しているので、様々な設定が生かされていることも感じるだろう。ディストピア小説なのだが、不思議とそんな感覚を与えないのが謎なところだが、たぶん社会を書くより個人に還元したことで、ディストピアのバッファーを緩めた感はある。

その意味では、ラノベではできなかったことを、ハヤカワ文庫JAという枠組みでのびのびと書いた印象を受ける。そのため対象とする年齢層はやや上であるが、『アッチェレランド』や『フェアリイ・ランド』を地元レベルに落として、展開を「垂水〜六甲地域」に限定したところが、物語を閉集合的にうまく囲い込んでコンパクト(集合という意味でも)にできたのではないか、と感じた。著者のデビュー作も購入したので、時間を見つけて読むことにする。ハヤカワ文庫JAラノベ出身の作家が活躍するのは、SF小説界に活を入れる意味でもプラスなので、どんどんやってほしい。著者の今後が楽しみである。