幻影の構成

眉村卓『幻影の構成』(ハルキ文庫)

『幻影の構成』にはハヤカワ文庫JA版、角川文庫版などいくつかのバージョンがあるが、最後に出たハルキ文庫版を読む。発表された当初の時代背景や問題認識とは異なり、現代のコンテクストで読み直せるSFである。本小説はイミジェックスというシステムによってコントロールされている世界の中で、制度(システム)と個、個と管理体制の在り方についての物語として読むことができる。過去眉村作品をいくつか読んできたが、本書はイミジェックスによる広告やシグナルによって偏向させられた消費者たちが、欲望の赴くままに自分の予算制約を考えないまま(借金をして)過剰な消費活動を行っている。つまり独占企業群によるサブリミナルによる強制需要喚起メカニズムにより、第八都市の中で人々はイミジェックスによってコントロールされている世界である。そんな中、一般市民だった主人公のラグ・サードは強靭な意志により、「奉仕マン」と呼ばれる管理市民体制側になる試験に合格し、第八都市の第四級市民として奉仕する矢先に、ある事件に巻き込まれる。彼はそのことにより、第八都市の「真の姿」に気が付き、反抗を開始する。というのが物語の設定。

まず市場とは何かを考えることが本書を読む際に重要である。市場は競争によるダイナミズムを持ち、常に革新的な技術や消費者に魅力的な商品を作り続けることにより、市場での勝者になり、最終的には独占的な利得をゲットすることができる。ところが模倣と創造により、市場に参入する新規参入がおこり、その結果市場では常に「よいもの」が生まれるダイナミズムがある。これは産業革命期から見られるダイナミズムで、市場は常に拡大・発展するがそれに制度がどのように追いつくのかという点で、市場の質の良しあしが決定してくる。しかしながら本書では、その市場構造が企業側のコントロールによる一方的な押し売りという形態であり、市場の質から見れば、競争の質、情報の質がゼロであるような世界を取り扱っている。つまり、本書では市場メカニズムがほとんど働かない世界で、企業によるコーポレートコントロールがガバナンス構造として各地方都市を支配した、中央集権制度を選択したメカニズムにある。

本書はさらに、その中でさらにもう一要素加わるわけだが、そういう意味では「ソシアルプランナーによる、人々の間の情報の非対称性をなくすような中央集権メカニズムの担い手はだれか?」という問題に帰着する。その意味で、本書と対極的な比較対象になるのは、伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房)である。伊藤作品の場合、純粋に「調和のシステム」に関する答えが、消費のコントロールにはなく健康にあった。この場合、自然と人間の価値観が多様性から一様性への転換の方向に向かうのは納得がいく。この点ではシステムデザイナーの選択が、ある種の指標のもと(たとえば何を最大化、最小化するのかという点で)、人類総体にとって果たして正しいのかどうか、判定できない「判定の問題」という点が、ディストピアとして分類される。眉村はあえて、「市場メカニズム」に立脚したうえで、人々の消費の多様性をベースにした一様なコントロールシステムを志向した点に違いがある。その帰結は、眉村と伊藤ではまったく異なるのが面白い。眉村は「人々の多様性を肯定し、人間によって作られた制約条件である「制度」の在り方を見つめ直す。それはフォーマルな制約(法律やルール)がインフォーマルな制約(慣習、行動規範など)によるフィードバックによって社会を支配しているゲームのルールが変化する」ととらえる。人間行動を制約する制度にひずみが起きた時に、人々は基本的に限られた情報の中で、ミクロ経済学の理論をベースに、選択をしていると仮定されるため、その中で不確実性を解消しようとする。ところが眉村が「人間というのはさまざまな要因からなっている」と文章中で指摘するように、多様なことこそがフォーマルな制約とインフォーマルな制約からなる制度を豊かな土壌にすると考える。そのため、制度をゲームのルールとしたときに、最適なゲームのルールをどのように設定するのか、デザイナーの視点に考えたのが本書である。

では具体的に見ていこう。巨大コンツェルンによるイミジェックスという電脳機構により、中央が欲望をコントロールし、人々を奉仕させる。相対価格メカニズムに沿って自分の総支払用意のみにしか注意せず、その枠組みで満足する一般市民、その枠組みに不満を持ち、自由に生きる自由民とコーポレーションの上級専門職として一般市民に奉仕する奉仕マンの階層が出来上がった世界。眉村はここで巨視理論というもので、イミジェックスの支配を正当化する。これはまさに個々人の欲望(消費)の和を最大化することは、努力に応じて個人に(その最大化した消費が)還元される、というものだった。このあたりにも眉村氏の経済学的な知見がよく出ている。ただし独占企業体は消費者の欲望をサブリミナルにコントロールし、無限ともいうべき「消費の罠」に陥らせ、消費の奴隷としてしまう。これでは最適な消費ではなく、独占企業による押し売りの状況に陥っている状況にある。それに対して眉村は、ハルキ文庫版311ページで社会の在り方について、彼の意見を提示している。すべての個人を満足させるようなシステムは無理だが、それを有効活用することによって秩序を保つことにある。それはフェアに不公平を生みだすシステムであるかもしれないのだが、それを支えるのはインフォーマルなルールであると眉村は指摘する。つまりフォーマルなルールとインフォーマルなルールの緊張関係について、眉村は実に優れた指摘をする。眉村卓のSFの見方はダグラス・ノースの新制度学派の考えに近く、フォーマルな制度が多様性の集合を狭窄したときに、インフォーマルな制度がフィードバックを行い、社会は緊張に陥るとみなす。これは代表作<司政官>シリーズにもあるように、日常から生成された慣習や行動規範の制約条件が、人々自らが化した制約条件である法などのフォーマルな制約が、フェアなゲームのルールとして受け入れられなかったときに、そのときにどのようなダイナミズムが生まれるのかを眉村は考えてきた。そういう意味では、インサイダーSFではなく、管理者側から見たアウトサイダーのSFと僕は感じるわけだが、そのあたりは議論が起こってもいいのではないかと感じる。