セドナ、鎮まりてあれかし

泉和良セドナ、鎮まりてあれかし』(ハヤカワ文庫JA

泉和良の最新作。傑作。久々に良いSFを読んだ、という満たされた気分になった。僕らの住む現実世界との対応という点でも、そのエッセンスを物語要素として詰め込み、戦死した人たちの存在意義を確認する。過去と現在が交錯し、ある絆がリンクした時に、英霊たちの御霊は「鎮まりてあれかし」どおりになる。SFという設定の準拠枠の中で、先の世界大戦における微妙な問題をうまく組み込み、問いかけていく。戦争によって障害を受けた主人公の尾野碁呂(ゴロー)空曹は先の激戦地だった惑星セドナで遺骨回収作業を、井伊神田少将(イーイー)、その部下であるクイミクと行う任務を受けもと。セドナは激戦区であったため、妨害用のナノマシンが大量に散布され、生物相が変化していた。そんな中、砂塵のひどいある日、電力施設の修理に出たゴローはある不思議な体験をすることになるのだが…。

戦争で知能に障害を持つゴローの朴訥な願いがそのまま、悲しみとして伝わってくる面がある。遺骨回収作業を通じて、ゴローは失われた何かを回復していく。その過程はある種、自分の再生につながっている。ゴローは様々なものを失いながらも、祖国のために遺骨回収作業をまっとうする。過去と現在が交錯し、それを仲介するのがある種「霊的な」存在であるというあたりが実に幻想的である。過去と現在が結合したとき、セドナは別のステージの高みへと向かっていく。その変化の様相こそに、日本人であればはっとさせられるものがあるだろう。ただこのあたりは好みが分かれるため、精神論や政治的な主張が嫌いな人は正直この作品を好きになれないだろう。メッセージ性という意味では、かなり強い主張をしているのでその点は評価がわかれてしまうと思われる。国家によって付与された<英霊>の意味をどうとらえるかがポイントになるだろう。

この物語には、国家による神話とは何か、その意味を感情の面で揺さぶる何かがある。二層の物語が紡ぐハーモニーは、英霊となった祖先の御霊について考えさせられる構造になっているが、この点は好みは分かれるはず。物語を読み進めていくと、その本質は一層めの構造ではなく、二層目の構造に触れたときに別の構造が見えてくる形になっている。戦後僕たちが継承しなければならない、精神的な部分についてはっとさせられると同時に、よく考えていかないといけない部分でもあるだろう。その意味では長谷敏司『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)と読み比べてみるとよいかも。なんともいえない、悲しさにつつまれた、その中にも希望もある、日本神話的な小説であり、いろいろなSFの良いエッセンスが組み込まれているため、いろいろと楽しく読める部分もある(たぶん、コードウェイナー・スミスの影響が強い気がした)。日本神話的という点で好みは分かれるとは思うが、琴線に触れる何かがあるだろう。

セドナ、鎮まりてあれかし



泉和良セドナ、鎮まりてあれかし』(ハヤカワ文庫JA

泉和良の最新作。傑作。久々に良いSFを読んだ、という満たされた気分になった。僕らの住む現実世界との対応という点でも、そのエッセンスを物語要素として詰め込み、戦死した人たちの存在意義を確認する。過去と現在が交錯し、ある絆がリンクした時に、英霊たちの御霊は「鎮まりてあれかし」どおりになる。SFという設定の準拠枠の中で、先の世界大戦における微妙な問題をうまく組み込み、問いかけていく。戦争によって障害を受けた主人公の尾野碁呂(ゴロー)空曹は先の激戦地だった惑星セドナで遺骨回収作業を、井伊神田少将(イーイー)、その部下であるクイミクと行う任務を受けもと。セドナは激戦区であったため、妨害用のナノマシンが大量に散布され、生物相が変化していた。そんな中、砂塵のひどいある日、電力施設の修理に出たゴローはある不思議な体験をすることになるのだが…。

戦争で知能に障害を持つゴローの朴訥な願いがそのまま、悲しみとして伝わってくる面がある。遺骨回収作業を通じて、ゴローは失われた何かを回復していく。その過程はある種、自分の再生につながっている。ゴローは様々なものを失いながらも、祖国のために遺骨回収作業をまっとうする。過去と現在が交錯し、それを仲介するのがある種「霊的な」存在であるというあたりが実に幻想的である。過去と現在が結合したとき、セドナは別のステージの高みへと向かっていく。その変化の様相こそに、日本人であればはっとさせられるものがあるだろう。ただこのあたりは好みが分かれるため、精神論や政治的な主張が嫌いな人は正直この作品を好きになれないだろう。メッセージ性という意味では、かなり強い主張をしているのでその点は評価がわかれてしまうと思われる。国家によって付与された<英霊>の意味をどうとらえるかがポイントになるだろう。

この物語には、国家による神話とは何か、その意味を感情の面で揺さぶる何かがある。二層の物語が紡ぐハーモニーは、英霊となった祖先の御霊について考えさせられる構造になっているが、この点は好みは分かれるはず。物語を読み進めていくと、その本質は一層めの構造ではなく、二層目の構造に触れたときに別の構造が見えてくる形になっている。戦後僕たちが継承しなければならない、精神的な部分についてはっとさせられると同時に、よく考えていかないといけない部分でもあるだろう。その意味では長谷敏司『戦略拠点32098 楽園』(角川スニーカー文庫)と読み比べてみるとよいかも。なんともいえない、悲しさにつつまれた、その中にも希望もある、日本神話的な小説であり、いろいろなSFの良いエッセンスが組み込まれているため、いろいろと楽しく読める部分もある(たぶん、コードウェイナー・スミスの影響が強い気がした)。日本神話的という点で好みは分かれるとは思うが、琴線に触れる何かがあるだろう。

エレGY

泉和良『エレGY』(星海社文庫

最初、講談社から出版され、のちに星海社文庫から出たのでこちらに変更。早川書房より、『セドナ、鎮まりてあれかし』が出た当初、泉氏のSFMのインタビュー記事が掲載され、それを読んで著者に興味を持ったのでデビュー作を読んでみた。フリーウェアゲーム作家の泉和良の内面の葛藤を恋愛と絡めた小説。ものすごい才能という滝本竜彦の推薦文は偽りなく、あっという間に読了した。その理由はいくつかあるのだが、著者の熱い想いと現実との境界を越えた、ヴァーチャルな現実感が実感できたからかもしれない。下手をすると「ストーカーファン(もしエレGYが著者の視点から見て美少女でなければ、ただのホラー)に妄想され、ストーカーされる生活困窮したクリエーターのお話」になるため。予定調和的な部分も予感するのだけど、実体験的にゲーム感覚で読めてしまう小説である。

というのは、主人公の泉和良はフリーウェアゲーム作家で、アンディー・メンテという同人サークルのコアメンバーであるジスカルド。ソフトから派生する二次派生グッツによって生計を立てている。生活費もままならないまま、閉塞感の漂う毎日。そんなある日、自身のフリーゲーム開発日記に「この日記を見た女の子は今すぐに、自分のいやらしいパンツ姿の写真を携帯で撮って、メールで僕に送って下さい!直ちに! 早く!」と怒涛のごとく書き込んだところ、本当に女子高生らしきファンの女子からの「パンツ」メールが送られてくる。そんなきっかけで、主人公=ジスカルドのフ熱烈なファンである(エレGY)とのやり取りがはじまる…。主人公のこころの葛藤が追体験できる形で、エレGYとの関係、友人との関係を含めて、進行していく。

この小説の魅力は、なんといっても読ませるパワーがあるということ。主人公の泉和良に没入できれば、読者は見事にこの世界にはまれるだろう。泉和良の体験や心の葛藤を体験しながら、職人的に自分の作りたいものを創作するということ、そしてどこかで妥協するということ(生計を立てるためには、一般受けするものをつくる)という二者択一で揺れる著者の気持ちは何らかの形で読者も体験したことがあるはずだ。さらに愛する女性に対してカリスマクリエーターとして、ネット上でファンを持つジスガルドというペルソナのイメージを幻滅させることを恐れる姿も、本当によくわかる。また自分からアクションを起こさず、女性がリードする形で恋愛するという姿に、恋愛の新たな姿が見られる。3つの要素が絡み合って、主人公がどの立ち位置をとるのか(創作的にも、人間関係においても)その解を模索する小説であるといえる。ジスカルドの魔法(クリエーター自身が天才であるという魔法をかければ、その作者がつくったものはどんなものでも名作に見える)の法則の殻を破る過程が、プライドを捨て行く過程として、実に人間性にあふれた過程で書かれていくので、共感できるのだろう。

つまり。いくつかの制約条件、特にジスカルドの魔法という強い制約条件のもとで、最適な解を模索しながら見つけていく姿は、きちんとその条件を利用してクリアするというあたりにゲームクリエーターとしての著者の姿が見て取れる。関係は自分から望めば収束できる、ということに気が付けば、無限の可能性は有限空間の範囲に限定され、何らかの形で収束する。本書ではエレGYという触媒により、ある種幸せな形で収束した一人の青年クリエーターのお話として読める。デビュー作だが、クオリティも高く面白かった。おすすめ。

エレGY



泉和良『エレGY』(星海社文庫

最初、講談社から出版され、のちに星海社文庫から出たのでこちらに変更。早川書房より、『セドナ、鎮まりてあれかし』が出た当初、泉氏のSFMのインタビュー記事が掲載され、それを読んで著者に興味を持ったのでデビュー作を読んでみた。フリーウェアゲーム作家の泉和良の内面の葛藤を恋愛と絡めた小説。ものすごい才能という滝本竜彦の推薦文は偽りなく、あっという間に読了した。その理由はいくつかあるのだが、著者の熱い想いと現実との境界を越えた、ヴァーチャルな現実感が実感できたからかもしれない。下手をすると「ストーカーファン(もしエレGYが著者の視点から見て美少女でなければ、ただのホラー)に妄想され、ストーカーされる生活困窮したクリエーターのお話」になるため。予定調和的な部分も予感するのだけど、実体験的にゲーム感覚で読めてしまう小説である。

というのは、主人公の泉和良はフリーウェアゲーム作家で、アンディー・メンテという同人サークルのコアメンバーであるジスカルド。ソフトから派生する二次派生グッツによって生計を立てている。生活費もままならないまま、閉塞感の漂う毎日。そんなある日、自身のフリーゲーム開発日記に「この日記を見た女の子は今すぐに、自分のいやらしいパンツ姿の写真を携帯で撮って、メールで僕に送って下さい!直ちに! 早く!」と怒涛のごとく書き込んだところ、本当に女子高生らしきファンの女子からの「パンツ」メールが送られてくる。そんなきっかけで、主人公=ジスカルドのフ熱烈なファンである(エレGY)とのやり取りがはじまる…。主人公のこころの葛藤が追体験できる形で、エレGYとの関係、友人との関係を含めて、進行していく。

この小説の魅力は、なんといっても読ませるパワーがあるということ。主人公の泉和良に没入できれば、読者は見事にこの世界にはまれるだろう。泉和良の体験や心の葛藤を体験しながら、職人的に自分の作りたいものを創作するということ、そしてどこかで妥協するということ(生計を立てるためには、一般受けするものをつくる)という二者択一で揺れる著者の気持ちは何らかの形で読者も体験したことがあるはずだ。さらに愛する女性に対してカリスマクリエーターとして、ネット上でファンを持つジスガルドというペルソナのイメージを幻滅させることを恐れる姿も、本当によくわかる。また自分からアクションを起こさず、女性がリードする形で恋愛するという姿に、恋愛の新たな姿が見られる。3つの要素が絡み合って、主人公がどの立ち位置をとるのか(創作的にも、人間関係においても)その解を模索する小説であるといえる。ジスカルドの魔法(クリエーター自身が天才であるという魔法をかければ、その作者がつくったものはどんなものでも名作に見える)の法則の殻を破る過程が、プライドを捨て行く過程として、実に人間性にあふれた過程で書かれていくので、共感できるのだろう。

つまり。いくつかの制約条件、特にジスカルドの魔法という強い制約条件のもとで、最適な解を模索しながら見つけていく姿は、きちんとその条件を利用してクリアするというあたりにゲームクリエーターとしての著者の姿が見て取れる。関係は自分から望めば収束できる、ということに気が付けば、無限の可能性は有限空間の範囲に限定され、何らかの形で収束する。本書ではエレGYという触媒により、ある種幸せな形で収束した一人の青年クリエーターのお話として読める。デビュー作だが、クオリティも高く面白かった。おすすめ。

殺す

J・G・バラード『殺す』(東京創元社

閑静なイギリスの高級住宅街で突如起きた無差別殺人。32人の大人が殺され、13人の子供が行方不明になるというショッキングな題材を取り扱ったバラード後期の中編。当時出たときに購入していて、しばらく本の行方がわからなかったのだが、ようやく今回発見したので読むことができた。当時(12年前)読んでいても、たぶん「ああ、なんか嫌な話だな、オウム真理教とかそういうのを意識したもの?」で済ましていただろう。しかし今現在読むと、バラードの執着していた「体制からの脱出とメカニズムの再構築」というテーマがなんとなく垣間見れるような気がする。この作品もまた、高級住宅街に住むリッチな家計の子供たちのある種の、システム構築の物語」だからだ。

大人たちによる子供たちの人生設計のグランドデザインが最適か否かは、微妙な問題をはらむ。自由意思を尊重するとしても、親の意思・コミュニティの意思というのは制約条件とみなされる。僕たちは教育を受けながら、「制約条件」のもとで「意思」というのを高めていく。実は自分の人生のデザインというのは、環境によって大きく依存しており、その依存というのは避けがたいものである。だからこそバラードの解決手段は環境に依存しながら、その環境をコントロールするための力を手に入れるということに主眼があてられる。この力による支配の解除あるいはコントロールの主題はバラードが追追究したテーマであり、、『楽園への疾走』『夢幻会社』『奇跡の大河』『ハイ・ライズ』『コンクリート・アイランド』あたりで見ることができる。今回はまさに「リセット」による、ある種の体制打破による子供たちの制度設計の物語ともいえる。順応せずに、自分たちが立ち上がり、秩序を破壊する。純粋な力としての彼らのみずみずしい力を、まるで爆竹を各所で鳴らしたように淡々と第三者のレポートという形で描くあたりに、バラードのすごさを感じる。

バラードと同様のアプローチだが、マイルドなものとして至道流星羽月莉音の帝国』(ガガガ文庫)がある。こちらは仲良しの高校生が主人公の羽月莉音を中心に革命部をつくり(半ば強引にだが)、日本国からの独立を目指すために会社を設立して、そのための資金を得るという経済小説なのだが、体制打破という点でのアプローチでは両者とも手段こそは異なるが、同じである。偶然同時期に読み始めた本なのだが、「コミュニティによる欲求の充足」という点では実に興味深い展開をしている。また逆に体制側に取り込まれてしまう立場には、眉村卓がいる。彼の場合、巨大な官僚組織の中で順応する立場をとることにより、それが自らの利得に影響するという意味でも「既存の体制になんとか迎合する。迎合できない場合は、結局排除される」という(もちろん例外もあるが)「すでに力をコントロールされてしまった大人」を描いている眉村とバラードはある種の対比が見られる(ただし、『幻影の構成』あたりは割とバラードに近い気がしたが)。

ユートピアというのは、システムデザイナーから見たときにユートピアであって、それ以外の人にとっては「ディストピア」にしか過ぎない。効率性の観点から見れば「ひとりにリソースを集中させる」こともまた、ユートピアになりうる可能性がある。パレートの意味で(他人の経済状況を変えることなく、ある人の状況を良くすることができるという意味で)、ユートピアのデザインは情報の非対称性が存在する限りには、微妙な問題となる。デザイナーの手による、ディストピアを認識したときに、僕らが何をおこすのか、そのヒントがバラードの作品にある。つまりこのデザイナーの視点(グランドデザインではないが、コミュニティのデザイナーとしてのバラード)は、ミクロ的に見て優れているからだと思う。

殺す



J・G・バラード『殺す』(東京創元社

閑静なイギリスの高級住宅街で突如起きた無差別殺人。32人の大人が殺され、13人の子供が行方不明になるというショッキングな題材を取り扱ったバラード後期の中編。当時出たときに購入していて、しばらく本の行方がわからなかったのだが、ようやく今回発見したので読むことができた。当時(12年前)読んでいても、たぶん「ああ、なんか嫌な話だな、オウム真理教とかそういうのを意識したもの?」で済ましていただろう。しかし今現在読むと、バラードの執着していた「体制からの脱出とメカニズムの再構築」というテーマがなんとなく垣間見れるような気がする。この作品もまた、高級住宅街に住むリッチな家計の子供たちのある種の、システム構築の物語」だからだ。

大人たちによる子供たちの人生設計のグランドデザインが最適か否かは、微妙な問題をはらむ。自由意思を尊重するとしても、親の意思・コミュニティの意思というのは制約条件とみなされる。僕たちは教育を受けながら、「制約条件」のもとで「意思」というのを高めていく。実は自分の人生のデザインというのは、環境によって大きく依存しており、その依存というのは避けがたいものである。だからこそバラードの解決手段は環境に依存しながら、その環境をコントロールするための力を手に入れるということに主眼があてられる。この力による支配の解除あるいはコントロールの主題はバラードが追追究したテーマであり、、『楽園への疾走』『夢幻会社』『奇跡の大河』『ハイ・ライズ』『コンクリート・アイランド』あたりで見ることができる。今回はまさに「リセット」による、ある種の体制打破による子供たちの制度設計の物語ともいえる。順応せずに、自分たちが立ち上がり、秩序を破壊する。純粋な力としての彼らのみずみずしい力を、まるで爆竹を各所で鳴らしたように淡々と第三者のレポートという形で描くあたりに、バラードのすごさを感じる。

バラードと同様のアプローチだが、マイルドなものとして至道流星羽月莉音の帝国』(ガガガ文庫)がある。こちらは仲良しの高校生が主人公の羽月莉音を中心に革命部をつくり(半ば強引にだが)、日本国からの独立を目指すために会社を設立して、そのための資金を得るという経済小説なのだが、体制打破という点でのアプローチでは両者とも手段こそは異なるが、同じである。偶然同時期に読み始めた本なのだが、「コミュニティによる欲求の充足」という点では実に興味深い展開をしている。また逆に体制側に取り込まれてしまう立場には、眉村卓がいる。彼の場合、巨大な官僚組織の中で順応する立場をとることにより、それが自らの利得に影響するという意味でも「既存の体制になんとか迎合する。迎合できない場合は、結局排除される」という(もちろん例外もあるが)「すでに力をコントロールされてしまった大人」を描いている眉村とバラードはある種の対比が見られる(ただし、『幻影の構成』あたりは割とバラードに近い気がしたが)。

ユートピアというのは、システムデザイナーから見たときにユートピアであって、それ以外の人にとっては「ディストピア」にしか過ぎない。効率性の観点から見れば「ひとりにリソースを集中させる」こともまた、ユートピアになりうる可能性がある。パレートの意味で(他人の経済状況を変えることなく、ある人の状況を良くすることができるという意味で)、ユートピアのデザインは情報の非対称性が存在する限りには、微妙な問題となる。デザイナーの手による、ディストピアを認識したときに、僕らが何をおこすのか、そのヒントがバラードの作品にある。つまりこのデザイナーの視点(グランドデザインではないが、コミュニティのデザイナーとしてのバラード)は、ミクロ的に見て優れているからだと思う。

異次元創世記 赤竜の書

妹尾ゆふ子『異次元創世記 赤竜の書』(角川スニーカー文庫

私たちの周りには、さまざまなモノが存在し、言葉によって名づけられている。例えば、ル=グィンのゲド戦記では、真の名前を知られてしまうと、真の名を知るものによって従属させられてしまう。それくらい、言葉によって名指しされ、規定されるということは実はものすごいポテンシャルを秘めた行為だといえよう。本書の世界観には、シニフィエシニフィアンの関係をうまく利用しながら、言葉に秘められた力を描いた作品といえる。

物語は魔物によって父親を殺害された聖なる墓森の番人の娘が、助けを求めたときに、伝説の民であるイーファルと出会い、危機を脱する。その一方で、竜使いの末裔ジェンは古の言葉を祖父から学び、竜使いとしての素養を高めていた。そんなある日、彼の村に「剣」を盗んだ剣士が現れ、彼は剣を盗んだ罪で餓死の刑に処せされる。ところが巡使の刑罰に反発したジェンと親友のウルバンは彼に食事を与えることに。そんなある日、ウルバンとは別行動をとっていたジェンは、魔物に遭遇してしまう…。九死に一生を得た彼は麗しきイーファルと墓森人の娘に遭遇。そして彼の運命は定まっていく。

物語の<秩序>が崩れてしまうのは、本を動かすことによって行われる。そこで竜使いの能力を持つジェンが意思によって言葉を獲得し、世界を再構成していく感覚が味わえるのが素晴らしい。日常が変化し、物語がジェンによって紡がれていく、その感覚が本書後半の魅力だといえる。その意味で、丁寧に構築された物語のコア要素が生かされていくのだなぁというわくわく感がある。のちに知ったのだがEXノベルズで出ていた『真世の王』の前日譚らしいので、早速読んでみたいと思う。